鹿島美術研究 年報第4号
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3.唐式甲制の日本への影縛形式を示す西安の作例として注目される。に便化してゆく過程と見られる。長安3年(703)の映西・独孤君妻元氏墓や景龍2年胸には護胸円護もしくは胸甲をつくり,腹前には,腰帯の上に護謄円護(半円形の窓),腰帯の下に腰回りに展開する前楯をつける形式ができ上るわけである。そして,この確立した形式は,開元前半頃まで大流行する。例えば,唐三彩の武士桶の多くが,この形式を示している。仏教美術では,敦煙第45• 46窟の二天像が,その典型とみられる。ところか,その後,開元後半期に入ると,この甲制に2つの新しい流行がおこり,形式に変化が生じる。・映西・雷君妻宋氏墓出土武士桶(天宝4年・745)・映西省博物館蔵石造神将立像(8世紀半ば頃)・アメリカ・ボストン美術館蔵石造四天王立像(西安・香積寺碑塔旧在,8世紀半ば頃)・フランス・ギメ博物館蔵木造神将像(敦燈旧在,8世紀半ば頃)・敦燈第194窟二天像(8世紀後半)等に,その例が見られる。第二の流行は,腰回りを覆う甲(すなわち,腰回りに大きく展開する中国式の前楯)の下縁が,雲頭形や花形等に装飾的にカットされる形で,・映西省博物館蔵石造神将像・フランス・ギメ博物館蔵木造神将像・敦燈第194窟二天像に,その例が見られる。以上2つの流行は,その後中唐以降の作例に受け継がれるとともに,日本の天平後期の神将像にも大きな影騨を与えた。7世紀半ば前後に成立したとみられる唐式甲制が,日本において明確な形で表れるのは,天智9年(670)以後の製作である法隆寺金堂壁画第9• 10号壁である。680年代から700年代に至る時期は,この奉先寺洞像に代表される装飾的な形式が徐々(708)の映西・郭恒墓出土の武士桶には,その整理の極まった姿がうかがわれる。両第1の流行は,胸部を覆う甲の上縁が胸下に一直線に表れ,胸甲の下縁を隠す形で,-179-

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