四以上の3例の他,奈良・金剛山寺の木造二天像も,当年度の調査によって,の3例(注)で,ここに表れたいくつかの新形式が,その後の8世紀後半の神将像の鎧の形にみられる神将像は,襟甲が高く,前楯が作られない点に注目すれば,貞観16年(642)題記の敦煙第220窟の示す形式に最も近いものと思われる。前楯の作られる神将像としては,・当麻寺四天王像(7世紀末)・法隆寺五重塔塑像(和銅4年・711頃)等が,古い作例とみられる。これらの作例では,後の日本の神将像のように腰帯の上に前楯の上端が作られることはな〈,そうした点では,腰帯の下のみに前楯の作られる大陸の形式に比較的近いものと考えられる。川原寺裏山遺跡出土の塔本塑像とみられる神将像も,この形を示している。ところが,天平2年(730)頃の薬師寺西塔趾出土塑像片や天平6年(734)の興福寺八部衆像になると,背面から腰回りを覆い,正面で合わせる表甲と,その合わせ目のすき間に表甲とは独立した細長い前楯を重ねる日本独特の形式が表われる。これは,おそらく7世紀から8世紀初頭にかけて定式化した大陸の唐式甲制の,護謄円護(腰帯上の半円形の窓)とその下に表われる前楯との関係を誤解し,円護と中国式の前楯を同一のものとみなした結果によるものと見られる。前合せの表甲+独立した前楯と要訳される日本式甲制は,その後,740年代の東大寺法華堂執金剛神像や同戒壇院四天王像によって明確に整理されて,形式的に確立し,東大寺法華堂四天玉・仁王像によって細部により装飾化が進む。さて,700年前後頃の唐式甲制の独自の理解に基いてできあがった日本式甲制に新たな変化が加わるのは,天平勝宝6年(754)の鑑真来朝を最大の契機とする8世紀半ば過ぎ頃である。この新様を端的に表すのは,.戒壇院厨子扉絵(原図天平勝宝7歳.755か)・唐招提寺講堂伝二天像(天平宝字3年・759以降か)・大安寺四天王像式を基本的に方向づけたと言ってよい。な天平後期の作例であることが判明した。この金剛山寺像の詳細については,別の機会に論じたいと考えている。-180-
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