鹿島美術研究 年報第4号
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•前楯の縁の切込が深くなったり,数多くなったりすることそれらのうちには,・胸下に帯を締めて,胸甲の下縁を隠す形が表れること・腰回りに,雲頭形や花形の縁を持った表甲とな別の甲一腰甲ーが表れること等の特徴が見られ,総じて装飾的な傾向が強まる。これは,基本的には開元後半以後の唐式甲制の2つの流行を受けたものと見られるが,仔細に検討すると,そこに日本的な新形式の受容の態度が見てとれ,大変興味深い。すなわち,新形式の受容に当って,日本のエ人が,730年代には成立していた日本式甲制の原則をあくまで守りながら,表面的に新たな唐形式を附加しようとしているのである。腰回りに表れる雲頭形や花形の縁をもった甲については,唐の作例では,腰回りに展開する中国式前楯の下縁であった。しかし,日本の前楯は,これとは異なり,腰回りには展開せず,正面だけで終わってしまう。そこで,日本式の前楯に花形等の切込を加えるとともに,わざわざ腰回りに雲頭形や花形の縁をもった別の甲(腰甲)をつけることによって,この形を写したと見られるわけである。胸下に巻かれる帯については,盛唐後期の作例では,ここに直線状に表れるのは,胴部を覆う甲の上縁であった。しかし,日本式甲制の原則は,前合せの表甲+独立した前楯形式であった。従って,胴部を覆っている表甲の上縁では,どうしても正中にすき間ができて,直線が作れないわけである。そこで,表甲の上縁を隠しつつ,胸甲の下縁を覆って,胸下に一直線がつくれるように,別の帯を巻いて,腰甲の場合と同様に表面的に新形式をまねようとしたわけである。このような当時の新形式受容のあり方を別の面から考えてみれば,既にこの8世紀半ばの段階においては,新たな外来的影闊によっても根本的に変わることのない日本独自の形式が,明らかに存在したことになる。これを日本の神将像の鎧における伝統形式と呼ぶことができるであろう。-181 -

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