の威力が白鳳の過渡期を越えて天平の模倣時代から弘化に没落するまで斯く観察して来た自分に……日本美術史的観察彫刻欧州文明の影靱を受けて現代明治大正の彫刻はロロ□没落の系統から化脱して方式手段総ての上に一新革命を就けたる時代として美術史上稀有なる功績を齋したる特筆すべき時代であると思ふ。古来彫刻は何々の方式と尺度と何々式の表現方法によらねば彫刻に非ずとするかの如き形式的主張は伝統は高潮を越えて過度となり過度の後にロロと悲観と生れ出て当然将来は口□せざるべ〈さる運命にたち到りここに織田豊臣の平凡時代を経て徳川の享楽主義をかもし遂に日本彫刻は終焉をつげている以来幾百年全く眠っていたのである。このときに当って西欧の文明渡来はこの出来事は確かに日本彫刻界に取って一大警鐘であったのである。現代明治大正時代は欧口を就げて更に過渡期にまで進展してゐるこの事実は日本人の文明の如何に盛んなるのを證賛して余ある。更にこの過渡期を逸脱しても真素朴の世に迄も進まうとする事が吾小数者の理想とするところであるに於て織田豊臣の時代は戦国時代の影縛を受けて人智甚だおだやかならず故にあらゆる事々物々に何等の異議もなければ進歩もなく徒に経て来てゐるの時代である例え平凡に終ってゐるこの時代に当ってこれにいささかの余地を見出しこれに享楽の栄華を加味した徳川の時代が後を引きつぎ来てゐるにすぎぬ」と記されている。橋本平八が残した日記は『純粋彫刻論』に収められているとはいっても,それは一部にすぎず,その日記等の全体は,117冊で総頁数約4,000頁と膨大な量に及び,その中にはスケッチを主とするものも存在し,デッサン・スケッチ1,710図が含まれていた。日記は自己の必要性から書き記すものであるといわれるように,橋本平八も後世に誰かがこれらの日記を読むということを想定していない。むしろ,読まれることを拒否するかのように,独得の筆跡を伴い,毛筆あるいは鉛筆により記された文章は簡単に読解できうるものではなく,解読する作業は予想を遥かに越えて困難であった。現在における調査の進行状況は,『純粋彫刻論』に収められていない日は原稿用紙に書き起こす作業をほぼ終了し,当初は必要性はないと考えていたが,『純粋彫刻論』として出版された部分について書き起こすことを行っている。その理由は,この部分についても省略されてしまっている箇所が多〈,誤字も少なくないことがわかったためである。について-183
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