例が多い。特に正面からの礼拝においても目につく部分の未完成がさほどまでに多いことは理解し難い。(海住山寺十一面観音立像・孝恩寺難陀竜王立像・縁城寺千手観音立像・神護寺薬師如来立像・温泉寺十一面観音立像など)調査した52例のうち,32例にまで正面部分において何らかの形で未完状況が認められた。背面など,通常の礼拝状態では目に触れない箇所では省力があり得ると仮定したとしても,正面からの礼拝に際して明らかに目につくような部分に省力がなされることは,宗教尊像のあり方として,やや考え難い現象ではないだろうか。―に,目につかない背面部分の省力としても不可思議な例がある。彫りの基本的な凸凹が既に完成している部分にも極めて強いタッチで丸ノミ痕及び手斧風の痕をとどめており,この状態から現状のノミ痕を削りとって平滑にすれば,折角の彫刻面はすべて潰れてしまうという事例が認められた。(月輪寺千手観音立像,楳野寺吉祥天立像など)更に,未完成とはいえ,未完部分か甚だ局部的であり,あと僅かに手を加えることで完成に至るという例(円覚寺薬師如来坐像,大岡寺薬師如来坐像,飯道山薬師如来坐像,孝恩寺阿弥陀如来立像,戒長寺薬師如来坐像など)や,局部的に丸ノミ痕を示す例(地福寺阿弥陀如来坐像など)がある。いずれもあと一歩で完全に仕上がるものであり,極めて僅かの手間を惜しむことが,省力なり,造像経費なりの面において,はたしてどれほどの効果を持つものか,甚だ疑わしい。以上のように,実例に即して考える限り,「檀色」像を含めた一木彫素木像に示されるこの現象を,単なる省力,未完成とすることは,やや矛盾点が多すぎるといわねばならない。素木像(「檀色」像を含む)に見られる未完成状況を理解するために,ひとつの考え方として,在来の霊木信仰との結びつきを想定したい。その際,素木像の中心をなす「檀像」がいかにわが国で理解されたかがポイントになろう。すなわち,代用材の使用により,材の制約が解かれ,大形の代用檀像が造られるようになる段階で,古来の霊木に対する観念と,檀像概念との接触が生じたと推定される。具体的にいえば,一材からすべての部分を彫出するという檀像本体の特性は,等身大以上の代用檀像を作る際には,おのずと大木が求められたはずであり,更にそれらの多くが霊木・神木の類であったのは必然的な結果であろう。その際,素地仕上げによる材質の誇示(「檀色」3.未完成状況に関する一試論_ 189-
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