しもペ僕達がペテロについて語っている場面,すなわち三度目の否認に先立つ瞬間だとした。が切断されているのがはっきりと確認されたが,これまでこの図のイコノグラフィー研究の困難は,現存部分から切断された部分をも考慮するという難しい作業を強いられてきた,という事実とも無関係ではない。ブレディウスとボーデは,図像については「ペテロの否認」としているか,ボーデにあっては,ペテロがキリストを否認する前の情景すなわち大祭司の召使とともにいるペテロ,と見なしている。もっとも,両者とも半ば直感的にそう確信しているのであって,その根拠については何ら明らかにしていない。その後,バウホに至るまで,この図像については風俗画説,「ローマ兵の陣営にいる聖パウロ」という見解が,研究者によって続々と提出されてきた。しかしそのいずれも,イコノグラフィーの伝統に照らしてプリヂストン美術館の作品を具体的に検討してはいなかった。K・バウホはブリヂストンの油彩画とP・モレインの二点の「ペテロの否認」を比較。女中の存在を除けば,特にモレインの二番目の油彩画との画面構成の類似に着目。ブリヂストンの図も「ペテロの否認」だという結論を下している。仮りに,この図の題が「ペテロの否認」だとすると,ペテロはどの人物で女中が存在しないのは何故か,という疑問が残る。バウホは,『ルカ福音書』22章55節「人々は中庭のまん中に火をたいて一緒に坐っていたので,ペテロもその中に坐った。」に始まり,女中の告発のあとその結果,画面左隅で膝を抱き笑う男をペテロと固定し,女中,更にこの図像にしばしば登場する鶏がそこにいなくてもよいと判断したのである。(図3)バウホはモレインの図との構図的な類似から主題を「ペテロの否認」としているが,この図像にとって伝統的なモチーフである女中,鶏が欠けている点を時間的な経過から二つのモチーフが現れなくともよい場面だとし,聖書の記述によって説明。更に彼は,オランダの司祭ハイベルト・ダイフハウスの「ペテロの否認」の解釈によってペテロだけ描かれているのだ,と補足説明を加えている。これは,「ペテロの否認」の伝統的なモチーフの欠如に対するバウホの苛立ちが強く感じられるのみでいささか説得力に欠ける。一般的にレンブラントのイコノグラフィーは,言葉よりもむしろレイケフォルセル,プライン,テュンペル等の研究からも知られるように先行作例こそが重要な役割を果たしている。Chr.テュンペルは,ブリヂストンの作品の主題を「マルタ島の聖パウロ」(?)とし1881年に,当時ベルリンにあったブリヂストン美術館の作品を相前後して紹介した-196 -
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