鹿島美術研究 年報第4号
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0 00000 000 もので,続く新王国時代(B.C. 1580■1090)から末期王国時代(B.C. 1090■333) には広く一般化し大量に作られるようになり,ミイラ姿の死者をかたどったウシェプティ像を副葬する習慣は,アレクサンドロス大王のエジプト征服後のプトレマイオス王朝時代(B.C. 333■30)まで維持された。一般に古代エジプトでは彫像がどの人物を表わしたものであるかは,像が本人に酷似しているだけでは不十分で,像に人物名を記して初めて同一人物であると信じられていた。従って通常のウシェブティには,人物名及びその肩書が記されたのである。このように,ほぼ1800年の長期にわたって制作され続けた膨大な数に及ぶウシェプティの年代決定には,まず学術発堀による年代の確定した作例をもとに時代の経過に伴う様式上の変遷を把握し,次により厳密な年代推定に役立てる為,人名等の銘文により年代幅をいかに短縮し得るかを調査し,最後に比較的出土地の明確なものの多いルーヴル美術館のウシェブティと,わが国の諸美術館所蔵の一般に購入品で出土地不明のウシェブティとを比較調査して,これらの年代別分類を行う計画をたてた。なおこの報告においては葬祭用小像を一律に「ウシェブティ」という一層一般化している名称で呼ぶこととする。厳密には,来世で死者が農作業の労役に従事しなければならない時,死者の代理を行う折に,「私がおります。」と答える者を意味するウシェブティの名称は,第21王朝(B.C. 1090■950)に現れたもので,それ以前にはシャワブティあるいはシェフ゜ティすなわち死者の為に来世で農作業にたずさわる夫役者と呼ばれていたのである。中王国時代の第12王朝に,ウシェブティの原型をなす小像が突然出現する。ルーヴル美術館所蔵のこの時期の作例1点は,高さ30cmの石灰岩製で,「ケンティケンティヘテプ」と名のる人物のものである。この像は,頭部以外死衣にすっぽりと包まれた完全なミイラ姿をとり,両手は,着衣にかくれて表現されていない。像の身体部には,「シェティト(地名)のプタハ・ソカリス神のみもとに仕える幸福なる者,レネスアンクの息子,倉庫の監視官ケンティケンティヘテプ」の銘文が刻まれている。文献資料によると,カイロや英米の美術館等に,同様式の閃緑岩製で無銘の像も存在していることが知られる。一方冥界の王オシリスを祭るアビュドスの墓地から出土したものの中では,死衣から両手を出して,様々な品物を握っているミイラ姿の像が目立つ。いずれも第12,第13王朝のものである。この時期には,小像は,1基の墳墓に1体埋葬されるのみで数は少ない。葬祭用銘文は,供養碑の銘文に共通するオシリス神に捧-224-

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