鹿島美術研究 年報第4号
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第18王朝時代に至って,小像には死者が来世での農作業に従事しなければならない折4)を好んで造らせた。一方貧しい人々は,素焼に彩色を加えた粗末な造りのものや,げる決まり文句が大半で,ミイラ姿の小像は,死者に冥界の王オシリスの加護を願うことを目的としたものか多い。しかし既に「死者の書」の第6章を想起させる銘文が記されている例も少数ながら存在し,ウシェブティの古典的形式の成立を予知せしめる。「死者の書」第6章の雑然と入り混った葬祭文が記されている。この過渡期を経て,に,代って重労働を引き受けるウシェブティの役割を明確化した「死者の書」第6の長文が記されるようになる。以降小像の様式,形体の変遷はほぼ同時代の通常の彫像様式に一致し,特に第18王朝末,宗教改革を断行したアクエンアテン王治下においては,ウシェブティは,死者の生前の衣服を着用したままの姿で表され,小型ながら普通の彫像とほぼ変りない形体をとる。それというのも,宗教改革は,アテン神以外の神々を否定しただけでなく,従来エジプト美術の基盤を成していた死後の世界の観念をも否定して,造形表現の再検討を迫るに至ったからである。すなわち「宇宙の真理マート」に素直に従う新たな宗教理念が美術に反映されて写実主義が強調された結果,ウシェブティにおいても死者は生前の姿で表されたのであろう。またこの頃になると,1基の墳墓に1年365日の日数を越える数,つまり365体以上最高700体まで副葬される習慣が定着し,以来守られるようになる(1例としてトゥトアンクアメン王墓よりは417体出土)。また両手に2つの唐鍬を握り,仕事袋を肩から背中につるした農を携えた姿で示されるようになった。このようにして確立されたウシェブティの古典的形体は,王のウシェブティに関しては末期王国時代まで,一般人のそれはプトレマイオス王朝時代まで,ほぼ同形式で維持される。来世でのこの特別待遇を受けようと願ってウシェブティを作るようになった。このようにして,新王国時代の諸王や,続く第21王朝の頃アメン神の聖地テーベに拠って上エジプトの支配権を握り,デルタ地帯の王朝から分離独立を宣した神官王及びその一族,そしてこれらの時代の富裕な人々は,鮮やかな青色釉薬をかけた陶製のウシェブティ(図1'図2'図3)を好んで制作させた。また末期王国時代の王や,下エジプトにおける富裕階級に属する者たちは,淡緑色の釉薬を施した陶製のウシェブティ(図第2中間期末の第17王朝下の粗雑な造りの小像には,オシリスの加護を願う銘文や第19王朝,第20王朝の両時代には,従前と異なって,最も貧しい階層の人々もまた-225-

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