鹿島美術研究 年報第4号
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000000 単に陶土をこねて,ミイラの姿と辛うじて識別し得るか否かの小型のウシェブティを副葬することで,満足しなければならなかった。前述のように,ウシェブティの名称は,第21王朝に現われ,その最古の使用例が,神官王ピネジェム1世の孫に当るピネジェムII世のウシェプティ像に見られる(図1)。以来この名称が用いられたが,第25王朝のエティオピア(現在のスーダン)出身の王たちは,王位継承の正当性を強調する意図をもって,自らも故意に古めかしい形の衣服を着用し,当時すでに使われなくなった名称を用いる傾向を有し,シャワブティの名称も復活した。しかし第26王朝以後再びウシェプティにとって代わられた。大型彫像の分野では,王像が一般人の像に先かけて新様式を生み出し,これを後者が模倣することによって様式の推移が見られたが,この傾向は,ウシェブティ像の場合にも当てはまる。第26王朝以降の葬祭用小像は,角型の小型の台上に立ち,背を角柱で支えられた姿,すなわち陶製にもかかわらず,大型石造彫像を忠実に模した新様式を示す(図4)。恐らく第26王朝初頭の王の葬祭用小像を模倣したものと考えられる。最後のレマイオス王朝時代のものは,大きくても20cmに達することはない。プトレマイオス王朝時代のウシェブティは,一般的には造りが悪く,銘文が記されている場合でも,乱筆の草書体で解読不可能なものが多い(図5)。像の顔面には,もはや第26王朝時代の彫像を特徴づけた「サイスの笑み」は消え失せ無表情な顔面と生硬な身体部を示す。以上の要約のように,ウシェブティ像の時代別様式変遷は多様であるが,明確で精巧に造られた様式を保っている像は,年代別に分類することが出来る。当然ながら粗雑な出来で様式の判然としないものでは困難である。ルーヴルにおける調査方法としては,主に2,000枚を越える作品別資料カードを利用した。コンピュータは,王,王族,高名な行政官や神官のウシェブティについては,関連資料を探す折に役立ったが,様式の変遷の詳細を辿るには不十分であった。より綿密な調査を必要とする作品のみ計測,写真撮影を行った。その結果未整理のわが国の美術館のウシェブティのおおよその年代推定はすべて完了した。調査により,例えば第21王朝のピネジェム2世(図1)やネシイタネブタウイ(図3)のウシェブティのように,わが国の美術館の所蔵品と同一人物を表すウシェプティがルーヴルのコレクションの中から見いだされ,明確な情報が得られた。しかしこのような厳密な年代別分類をすべての作品に及ぼすことは出来なかった。その理由としては,まず第1に,第30王朝には,時として30cmに達するやや大型の葬祭用小像が造られたが,続くプト-226

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