Grosse)が1919■1922年にわたり民族学と東洋美術史を講義した大学である(グロッ③Chiniche und J apanische Kunst II, 1900■ 6年・1冊②Japan und Ktinstler, 1894■1900年・1冊⑤ 同上,1909■12年・1冊⑥ 葉書(オオサワ氏よりグロッセ宛)1通3(金)今回の調査による知見と内容は以下のとおりである。1.フライプルク大学民族学研究所同大学は,林忠正宛書簡主中最も重要な人物の一人工ルンスト・グロッセ(Ernstセが主任教授時代にKurtBauchが学位論文の審査を受けた)。また,グロッセの業績に関する研究を行っているエルプス・メイ(Elbs-May)博士が在籍しており,同博士からグロッセに関する貴重な資料の提供を受け,同じ〈重要な書簡主であるマリー・マイヤー(MarieMeyer)とグロッセとの関係等について教示を得ることができた。調査及び写真撮影を行ったグロッセ関係資料は下記の六点である。① Kunst und Ktinstler(西洋美術)1冊④ 日本滞在中の美術に関する覚書,1907-9年・1冊①は西洋美術に関する覚書,②は日本の美術作家に関する覚書である。特に,日本滞在中(1907■1913)に実見した作品を中心に記された④⑤は資料的価値の高いものと思われる。こうした資料から,グロッセ自身が日本で古美術品を調査するほど東洋美術によせる関心が高く,また豊富な知識を得ていたこと,なかでも工芸品に強い関心を抱いていたことが推測される。に,グロッセの孫娘FrauKorfsmeierの旧蔵品中にグロッセの日記5冊が含まれており,ビング(Bing)と林との関係悪化に関する事情が記されていることなど興味深い教示をエルブス・メイ博士から得ることができた。また,グロッセの養母であるマリー・マイヤー(MarieMeiyer)に関する情報(画家ベックリンの援助者であり,彼の手になるマイヤーの肖像画が残されていることを後に知った)と,マイヤーが1920年の経済恐慌の際に林からの購入品を含むかなりの作品を手放したこと,グロッセの所蔵品の大半が第二次世界大戦で失なわれたこと,災禍をまぬがれたものがソ連へ渡ったらしく現在その存否が未確認であることなどの教示を得た。成田-230-
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