鹿島美術研究 年報第4号
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3.後期江戸狩野派の研究師相互の関係やかれらと筑前の文化とのかかわりもあきらかにすることができるであろう。そしてまた筑前の絵師たちのあり方は,ほかの地域の絵師たちのあり方をも照らすかも知れない。さらに筑前絵師の史料のなかには江戸の狩野家や探幽の粉本偲承にかかわるものもあり,これらは筑前絵師の研究が筑前という枠をこえる可能性を示唆している。筑前の絵師たちの残した作品にあたえられる美術的評価は,不幸にして,かならずしも高くはない。このことが筑前絵師についての研究を滞らせている最大の原因でもある。しかしながら,ある人々は長き驚系をたもち,ある人々は多数の遺品を今日にまで残し,またある人々は絵師としてその名をたたえられていることをいかに解すべきであろうか(かれらにも失われた佳作があったとすべきか,博承する遺品から近世筑前人の美意識を評すべきか,地方の絵師は藝術家であるかそれとも職人であったか)。さまざまの問題を考察するために,まず基礎的史料の蒐集が必要である。研究者:板橋区立美術館学芸員安村敏信研究目的.. 江戸時代絵画史の研究は,従来京都を中心とする関西画壇の研究が主であり,江戸の地を中心とした地域画壇についての関心は,はなはだうすく,谷文巽,酒井抱ー,渡辺単山といった単発的な作家研究が行われるにとどまっている。本研究では,その弊害を克服し,江戸画壇の総合的把握をめざし,近世から近代への伝統継承過程を正しく認識するための基礎作業を本務とする。そこで,江戸というー地方画壇が本格的な活動を始めたと考えられる江戸時代後期に焦点を絞り,視座を官学の要江戸狩野派に置く。この後期江戸狩野派の変遷を,江戸民間画壇の動向とにらみ合わせて探ってゆくことにより,単なる流派研究のみに留まる弊害を克服し,複合的な視点からの後期江戸画壇の変遷をも探ることができる。岡倉天心は,この時期の江戸狩野派を2期に分けて,栄川院・養川院の時代に微細な変化があり,伊川院・晴川院の時代に古画模写によって変貌を遂げ,明治の芳崖.雅邦に至って宋元の画風を取り入れ新機軸を出したと述べているが,この天心の系統的段階論を実証した研究は皆無である。この研究ではフェノロサ等によって持ち去られた在米作品の追跡調査と,国内における広汎な作品調査とによって,天心の推論を-24 -

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