鹿島美術研究 年報第4号
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17.平安後期の虚空蔵信仰とその絵画の研究一美術館以外に収蔵されている幡絵や壁画の類についても(ニュー・デリー博物館など)写真資料を収集して敦燈莫高窟における四天王図像を把握できるよう努力する。敦煙莫高窟はその地理的特性のためにインドや中国中原の各地方からの影脚を蒙っていると考えられるので各地にみられる作例についても出来る限り収集する。特に隣接するクムトラやキジール石窟の作例については是非比較検討の対象としたい。すなわち,この研究の目的とするところは各種の影榔を蒙ったとみられる沙州敦燻県を中心とするいわゆる中国西域の四天王図像の変遷を様式史的に考察すること,その典拠たる経典をリスト・アップし,当時の仏教のもたらした状況を考察すること,更にはそれらの成果をまだ確定的とはいいがたい幡絵の編年に応用することにあり,最終的には,東アジア仏教圏において重要な画題である四天王画像の持つ意味を考察したいと思っている。研究者:京都国立博物館学芸課研究員研究目的:平安後期から鎌倉時代にかけて制作された種々の虚空蔵菩薩画像が現存している。中でも東博本はその白眉というのみならず,平安仏画の名品である。これまで美術史的には,本作は院政期仏画の耽美的傾向を帯びながら,宋代仏画の影響かあるとされ,またその用途として虚空蔵を本尊とする修法のうち,一般的な福徳招来を意図するものと考えられてきた。しかし,美術史上の意義及び信仰背景の面とも,その研究は不充分であった。平安後期の虚空蔵信仰としては修法の本尊という側面と同時に追善や修善のための造画造仏という性格も強く,特に12世紀においては十斎仏信仰の中に汲み入れられた時期があったことはほとんど等閑視されてきた。この点は新たに研究すべき側面であり,東博本が生み出された時代の信仰背景として重要なポイントである。十斎仏信仰が,中国の唐末頃に起源することも,本作品の宋画的要素を考えるに当たって注意すべき事項である。一方,作品についての宋画的要素は,全体の寒色主体の色調のみから言及されるが,細部の文様や,装身具・列弁文の形式,朱線の使用頻度,昭制など,種々の項目にわたって考える必要があり,唐末から宋にかけての仏画,及び院政期仏画との表現・形式との詳細な比較に基づいて行うべきものである。-34 -泉武夫

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