鹿島美術研究 年報第4号
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少卜1に行って台湾に帰らなかった。2人は台湾最初の日本留学画学生であったが,台湾動は次第に盛んとなり,各地に画家が出るようになった。台北の洪以南,朱少敬,新竹の張純甫,鹿港の施梅樵,台南の羅秀恵,彰化の黄元璧などである。この傾向は日本との合併以後も続き,20世紀前期には台北に禁雪深,禁九五,奈大成,新竹に鄭香鳳苑耀庚,鄭江立,陳湖古,陳心授,李逸樵,張金柱,台中に呂汝涛,施涛柏,台南に呂璧松,i番科,彰化に林天爵,嘉義に奈禎祥,蒋オ,宋光栄,林子有,周雪峰などが出た。彼らは主に花鳥画をよくし,山水画を専門とする者は殆どいなかった。画風の上では謝瑶樵を始め,福建,広東画派の大きな影特下にあり,独自の画風を生むには至らなかった。山水画家が生まれなかった原因は,19世紀末までの台湾は開拓の途上にあって,中国の文人を支えた江南のように厚いめであると考えられる。台湾に新に美術運動が生まれたのは,日本と合併後,日本語教育が普及し,日を第二母国語とする世代が成長してからである。日本の合併後,間もなく設立された国語学校(後の師範学校)では日本人教師が美術も教えたが,それは主に写生に基礎をおいた授業で,そこから新しい画家たちが育っていった。黄土水(1895-1931)は台北国語学校で彫刻に対するすぐれたオ能を認められ,1915年,卒業と同時に学校から東京美術学校彫刻科に送られ,高村光雲に師事した。同校卒業後は北村西望,朝倉文夫について学んだが,1931年,36歳で東京で病逝した。黄土水は東京で客死したが,その作品は台北に多くのこされて,次の美術青年に大きな影繹を与え,蒲添生,陳夏甫,黄清呈などの彫刻家を生む契機なった。黄土水はいわば台湾の近代美術の幕を開けた人物であり,彼が「山童吹笛」で第一回帝展に入選した1919年は台湾近代美術の出発点といえる。画家としての最初の日本留学生は1914年,東京美術学校西洋画科に入学した劉錦堂である。ついで1916年には張秋海が東京高等師範学校図案科に入学し,間もなく東京美術学校西洋画科に移った。しかし,劉錦堂は同校卒業後,1920年に北京へ行き,王悦之と改名して北京で美術教育につ〈し,同地で亡くなった。張秋海も日本から旧渦の絵画運動に貢献するところがなかった。台湾の近代美術の発展に大きな役割を果したのは,その次の日本留学生たちである。顔水龍は1920年,正則中学三年に転入,かたわら素描を学び,1922年に東京美術学校西洋画科に入学した。同年,楊三郎は京都市立美術工芸学校に入学(24年に関西美術を生むに至らなかったた-63 -

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