院に転じた),1923年には陳澄波,磨継春が東京美術学校師範科に,24年には陳植棋が同校西洋画科に,26年には郭柏川が西洋画科に,陳進が女子美術学校日本画部高等科に,林玉川が川端画学校西洋画科に(のち日本画科に転じる)入学し,以後,毎年数名が日本に留学した。ヨーロッパヘの留学は少しおくれ,陳清‘i分が1928■32年,顔水龍が1929■32年,楊三郎が1932■34年,劉啓祥が1932■35年にそれぞれパリに留学したが,いづれも一度日本留学を経ている。初期の日本留学生の多くが東京美術学校に留学し,岡田三郎助,藤島武二に学んだことが,以後1945年までの台湾画壇の主流をアカデミズムが占める原因となった。,台北師範学校教員の石川欽一郎の影閻をうけて{兒蒋懐,陳澄波,陳英声,陳承濡,藍蔭鼎,陳植棋,陳銀用ら7人が「七星画壇」を結成した。会員の大半が台北師範出身で,石川欽一郎に学んでおり,水彩と油画の研究を主な目的とした。同年,台北師範の学生及び卒業生が石川を中心に「台湾水彩画会」を組織した。会員相互の切磋と研究を目的とし,毎年,発表会を開き,「日本水彩画会」からも作品を出品したので,台湾の初期洋画界に大きな貢献をした。石川欽一郎はこれより早く,1907年に総督府に派遣され,国語学校美術教師を兼任し,水彩画を教えていたが(1916年まで),その影聾が現われたのは1923年,2度目の台湾赴任以後である。「七星画壇」は僅か3年余りで解散したが,当時,東京美術学校に留学中であった陳澄波,陳植棋,陳承播は素描とアカデミズムを重視する美術学校卒業生と在校留学生に呼びかけて,1927年「赤島社」を組織した。「赤島社」は毎年,画展を催したが,やがて会員がフランスに留学したり日本に行ったりして会を維持することが困難となり,これより先,在台の日本人美術教師石川欽一郎,郷原古統,木下静涯,塩月桃甫らは,同じように日本に合併されていた朝鮮で官展が行われているのを見て,総督府主催の美術展覧会の開催を総督府に建議していたが,1927年に「台湾美術展覧会」として第一回展が開かれ,東洋画部40点,西洋画部88点が出品された。台展の発足は台湾の美術運動の発展に大きな刺戟を与えた。西洋画部の入選が東洋(日本国中国画)部の2倍であったように,西洋画に対する学習意欲をいっそう高めたことであり,第2は中国画部が設けられなかったため,19世紀末から次第に盛1921年,台湾文化協会発足のころから,文芸運動が盛んになり始めた。1924年には1934年に「台陽美術協会」に発展解消した。-64 -
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