1945年まで,台湾における最も権威ある展覧会として続いた。19世紀末以来の全国的な社会全般にわたる中国再生のための西洋文明吸収の気運の中(1903年),「ベニスの月」(1904年)などヨーロッパ帰国後の作品の影閻によるとするんになってきていた中国画,ことに福建画派を急速な衰退に追いやったことである。台展は第十次展の後,1936年から台湾総督府美術展覧会(略称,府展)に改組され,台湾における新美術運動の特徴は1920年代半ばになってから,東京美術学校西洋画科を主とする日本留学生と石川欽一郎など在台の日本人美術教師を中心に急に盛んになったことであり,いわば師範学校を中心とした美術教育の中から起り,発展していったことである。それは上海,北京における西洋画吸収を中心とする新美術運動が,で始まり,西洋画の摂取によって中国画を再生させようとしたのとは大きなちがいかある。高剣父の日本留学清末に始まる西洋画吸収の気運の中で,最も早く本格的に西洋画にふれ,それをんだのは広東の高剣父である。高剣父は1903年,25歳のときフランス人画家マレについて木炭画を学んだ。それは1年足らずで終ったが,1907年,東京に留学した。この日本留学について,留学前の高剣父から広東の述善小学校で教えを受けて以来,晩年まで師事した簡又文は「白馬会,太平洋画会,水彩画会に入り,ついで東京美術院に入学した。それは中国人として最初の留学生であった」と述べている。この東京美術院を欧米,中国の文献は東京美術学校としている。しかし,1907年当時,東京で美術学校と名のつくものは1900年開校の女子美術学校を別にすると東京美術学校の外には太平洋画会附設の太平洋美術学校(1904年開校)しかなく,東京美術学校の入学者名簿には高剣父の名が見当らないから,東京美術学校入学は後人の修飾によるものであり,太平洋美術学校であったかもしれない。白馬会,太平洋画会の資料にも彼の名は見えず,東京での学画の跡を確めることはできない。高剣父の「緬絢仏蹟図」,「荒城落日図」(1934年作)を竹内栖鳳の「羅馬古城真景図」説が欧米では優勢であるが,両者の間には30年近い隔りがあり,高剣父の日本留学後の画風の展開と作品の検証から,2人の画風の親近性は影響関係によるものではなく,全く別々に西洋画に接近していって,たまたま同じところに到達したと見るべきであろう。-65 -
元のページ ../index.html#83