matiereの部分を,全面に拡大したものが抽象表現主義の絵画であると考える事は論理matiとreが成熟した結果,イリュージョンは物質へと変貌した。そこでは豊かに輝〈matiらreは成熟して,存在となった。3.光の変容(m臼emorphose)制作におけるオートマティスムの介在の有無などの基本的な相違点はある。しかし抽象表現主義の絵画空間の成立が,近接視的な部分を遠隔視的な全体と結合させ,オル・オーバーな全面空間構成を計ったものであってみれば,ルオーのペインタリーな的に可能である。しかもオートマティスムという方法論は,ロバート・マザウェルもうように,20世紀においてもはや,「実際にはほとんど無意識の問題ではあり得ず(22)」,意識化された有効な強戦の1つだとすれば,ここでもルオーと抽象表現主義を分つ差異は縮小する。だがルオーと抽象表現主義は,絵画構造の上で本質的に相似する。マチスか‘,「色彩の量がその質にほかならない」と言い,また「色彩の量の関係が質を生み出している(23)」と述べる時,それは抽象表現主義絵画の事を言い当てている。なぜなら,「崇高」とか「孤独」といった絵画の「質」がもし抽象表現主義の中に生まれるとすれば,取りも直さずそれは大画面における色彩の「量」に起因しているからだ。それなら,マチスや抽象表現主義絵画の平面的な色彩の量を,3次元的に立体化したものがルオーの色彩の量だと考えれば,両者は共に「量が質を生む」構造を内包している訳で,この視点からすれば,ルオーと抽象表現主義のみならず,ルオーとマチスの絵画構造上の差異も無化する可能性がある。いずれにしろルオーと抽象表現主義の絵画空間が,共にイリュージョンとは異なる物質空間によって本質的に規定されている点は,あらゆるを越えて,基本的な共通項である事に変わりはない。実体によって受肉したルオーのmatiereは,もはや絵画を越えて,1つの「存在」へと近づいている。ところで,光を生んだ色彩の転調と,存在を生んだmatiereの成熟とは,これまで見てきた形而下的世界において,共に否定性から肯定性へという図式で捉え得るか,この否定から肯定への力動的な転位は,光そのものの変容を促しはしなかったであろうか。銅板画集『ミセレーレ』によって生み出された「悲劇性としての光」の本質的契機は否定性にあった。この言わば否定性の光は,連作油彩画『受難』において,転調し79 -
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