賛者に関する新知見を中心に,若干の考察を加えてみたい。0「官南」官南は,画伝類においては画家金玉倦の号とされ,北条氏政の画師で,狩野元信の門人とも伝えられる。栃木県立博物館蔵「神農図」は永禄8年(1565)1月の「法眼定珪」の賛を有し,活躍年代の指標としては今のところ唯一のものである。早くより知られた作品であるが,その賛者等についての具体的な言及はまだ見当らないように思われる。「法眼定珪」は医師,竹田定珪(生没年未詳)と推定され,法眼には天正文4年(1535)に叙せられた。竹田家は,は定珪の奈良滞在中に,「西藉老人」が絵を持寄り,応じたものであることが,賛末の識語からわかる。「西藉老人」については,今一つ判然としないところとあるが,識語の文中,「泉南薬師院高定之門」とあり,この「高定」は恐らくは定珪と同じ竹田家医師,竹田高定と思われ,また画中の書込に,この絵はその後「西藉老人」の子の「昌佐」から「覚祐老人」の手に渡ったとあるのでおよその察しが着く。昌佐,覚祐は,双方とも奈良連歌師として知られる人物と考えられ,昌佐(■1578)は奈良龍雲院の僧である。ところで,このように本図が奈良で着賛されている奈良及びその周辺との深い関りが考えられる点は,注目しておいてよいだろう。このことは以下の点とも無縁ではないように思われる。「官南」印の作例は,本図の他管見するところ,7点が確認される。列挙すると一。「山水図」(個人,「日本の美術」63)。「花鳥図」(根津美術館)。「競図」(個人,「花鳥画の世界」2)。「渡唐天神図」(栃木県立博物館)。「同」(個人,「日本美術絵画全集」6)。「鍾旭図」(ボストン美術館)。「豊干図」(個人)ーとなる。なお,「本朝画纂」には江戸駒込養源寺什物として「白衣観音図」が載る。これらのうち,「渡唐天神図」二図は,指摘されるように,一方が祥啓画の直模とも言うべき作例であり,他が狩野派の典型像を継承することは,官南の拠るところを端的に示すものであろう。また,例えば「花鳥図」(根津美術館)から,祥啓もしくは狩野派の影響を読みとることは可能である。しかしその一方で「官南」画の中には一それは先の「神農図」や「山水図」「鷺図」において強く認められる一単に狩野派,祥啓派の中に置くのみでは理解できない特異な要素が混在していることもまた否めない。個人様式との関連ももちろん見逃せないが,私見では,それ以上に,奈良での活躍が知られる「鑑貞」との関連を考えことによって理解できるように思わを初代とする医師の名門である。この賛また絵を持寄った人物に,76 -
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