れるのである。しかし,この問題にはここではこれ以上立入らないことにし,先の著賛画のことと合わせ,単に問題提起とするにとどめておきたい。0「式部輝忠」式部も,関東狩野派を考察する上で,重要な位置を占める画家である。式部については既に山下裕二氏の論考(「国華」1084)があるが,氏はその中で,祥啓派及び小田原狩野派の,式部の画風形成に与えた影響について,堅実に跡づけられた。ここでは三点の著賛画をとりあげ私見を述べることとする。まずは,常庵龍崇(1470■1536)賛「富士八景図」(静岡県立美術館)についてであるが,本図の成立事情に関しては,常庵の駿河行きと結びつけて考えることができるようである。常庵は,兄の素純が,享禄3年(1530)6月5日に没したため,その弔問を兼ね,まもなく(10月頃との説がある)駿府に下向,翌年4月15日に着京している。本図への着賛は,この駿河滞留中になされた可能性が高いという点である。常庵の駿河滞留中の出来事としては,幼少の今川義元が常庵の手によって得度したこと,が歴史上最も知られている他,まだ詳しい行動は明らかにされていない。その解明が残されているが,賛文中の「為報豆州人」「有人自遠州来」という記述も,このように考えることによって,より自然に受けとめられるように思われる。また関連しては,「李白観瀑図」の賛者景笥玄洪が,これもやはり駿河に関わりの深い禅僧であることは注目される。景笏については,従来その詳しい伝記は不明とされてきたが,今回幾分なりとも明らかにし得たのでここに記しておきたい。臨済宗妙心寺派の大原崇学に法を嗣ぎ,遠州貫名(静岡袋井市)の称名寺,永禄3年(1560)には駿河の善得寺に住した。なお,永禄元年には妙心寺の公帖を受け入院したが,世代には数えられていない。そして永禄12年,善得寺が兵火に罹ったために出奔,伊豆・相模の間を流浪しているうち,天正3年(1575)8月21日に客死している。先述の常庵の下向,そして今の景笥の経歴を合わせ考え,式部の駿河での足跡を想定してみることも可能であろう。さて,式部のいまひとつの著賛画,策彦周良(1501■1579)の賛をもつ「張果老図」(正木美術館)であるが,本図についてては同館発行の図録に載る以外は,これまであまり言及されていない。私見では,式部の行体人物画の好作例と受けとられるので,ここに記す次第である。また,策彦の書風が晩年のそれを示していることは,式部の活躍年代の一資料としても有効と考える。[付記]。「是庵」-77 -
元のページ ../index.html#101