鹿島美術研究 年報第5号
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Palmerl817-1876)の作品に近いように思われる。く早い時期の作例として注目されるが,アメリカ絵画との相似点を持つことからも興味深い。図柄は西洋の雪景で明らかに西洋の作品を模写したものと考えられる。画面全体をおおう独特の均質な質感は,油彩画そのものを写したよりも,むしろ版画を写した可能性の高いことをうかがわせる。稚拙さのある素朴な田園風の趣はアメリカ絵画を思わせ.雪景を描くことで知られたデューリー(GeorgeDurriel820-1863)などの作品を想起させるが,樹木のねじれたような枝の表現に注目すると,デューリーよりもフランシス・パルマー(Frances以上の例はいずれも相似点を示す段階にとどまる。機関車のようにアメリカからの視覚情報なしには描き得ないものとは違い,偶然にあらわれる共通性である可能性も否定できない。影響関係については,さらに調査・研究を要する。明治二十年代後半になると,黒田清輝の帰朝などもあって,フランスが世界の美術の中心である,とする認識が洋画家の間に定着する。それ以前は,イタリアやドイツなどに留学して絵を学ぶ者もあったが,この頃になると絵画修業のための留学はフランス,パリに集中するようになる。しかし,直接フランスに留学する財力を得られない者はいったんアメリカに渡り展覧会を開くなどして資金を得てフランスに向かうことが多かった。吉田博,中川八郎,鹿子木孟郎,満谷国四郎,丸山晩霞,石川寅治などがその例である。本研究で,渡米した日本の洋画家のアメリカにおける展覧会の目録を収集を行い,その内容を検討したところ,出品された作品はほとんど全てが水彩画であり,主題も日光や社寺などの日本の伝統的な風景や,着物を着た人物を描いた風俗画であることが明らかになった。これらの作品は当時のアメリカ人によく受け入れられたようであり,首尾よくフランスヘ渡ることのできた画家も多い。この現象は,アメリカの側に,異国趣味を満足させてくれるものとしての日本美術への期待と,ステレオタイプ化された日本美術に関する認識が,既にできあがっていたこと,そして同時に,日本人はそのようなアメリカの状況を理解し,利用し,その結果さらにアメリカでのステレオタイプ化された日本美術の認識が増長されていることをうかがわせる。アメリカ人が日本美術について特定のイメージと認識を抱くに至った経緯は,万博などの国際的な日本紹介の機会と日本が自国のイメージをどのようにつくろうとし,それがどのような結果を積み重ねてきたかにかかわっている。国際化された今日の世界で,今なお残る「日本的なもの」のイメージがどのようにつくられてきたかを跡づける上でも興味深い問題であり,現在さらに調査を進めている状況である。80 _

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