鹿島美術研究 年報第5号
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る。しかし,No.15,16の2点は,印が合わない。No.16の「竹図」の“倦嶺”(朱文方印)は,今のところ他に使用例を見ない。そして,「平安人闘氏字仲均」印が他と異なる。その違いは,中央列上段の“員←’'字の上(矢印)が,他よりも大きく横長である。さて,「雪松図」(東博)は,二印の内,下の印が他と異なる。中央列下の“氏”の矢印の部分が,東博本は底で直線で,他は因とゆるやかにカーブしている。また,上の「倦嶺」印は,東博本は横づれしているため,他の印と重ねることができない。当初は後世の表具改装の時等に見られる絹地のよれかと推測していた。しかし,よく見ると絹は,殆ど横づれしていない。はたして,この様な印の押し方に押せるものであろうか。いささか疑問を抱かせる印付である。ともあれ,以上の様に東博本「雪松図」の印が,他の作品の印と合致しない。東博本の印のみが良くて他がダメなのか,それともその逆か。また別の問題があるのか,極めて重大な疑問といえよう。現在の所,様式的検討に着手していないので,この問題は,将来の総合的検討をまつこととしたい。3.明和3年(1766)春の作品(No.18)から,同年冬の作品(No.19,20)に至る間の夏,秋の年紀を有する作品を,いまだ出し得ていない。冬には「応挙之印」「仲選」(共に白文方印)の最初の使用例が見られる(No.19)。この年の春〜冬の間に“仙嶺”から“応挙”に改められたと思われるが,現在の所,この間は縮められない。4.同じ明和3年冬の「竜虎図屏風」(藤本家,No.20)には,「藤応挙印」(白文方印),「仲選氏」(朱文方印)が使用される。今のところNo.20■23の4例しか集まっていない。この4例の印も必ずしも一致しないが,結論は先に延ばしたい。図版等では,他に数点の使用例が知られる。なお,「藤応挙印」ということで,“藤原”姓の使用が確認される。明和3年(1766)が年紀の明らかな初出であるが,20歳代後半と見られるNo.6, 7の2作品に,すでに「皇都人勝氏字仲均」の印を使用している。つまり,応挙は早くも20歳代の後半から“藤原”を名乗っていたと知られる。そして,「藤応挙」と署名する初見は,明和4年(1767)春の「岩頭飛雁図」(円満院,No.24)である。5.明和4年(1767)から安永2年(1773)頃の作品は,多く年号を記さず干支のみの例が多い。No.24■39あたりの落款形式がそれである。同じ年でも,年号を書いたり書かなかったり,また,印も2顆押したものや,1 -83 -

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