鹿島美術研究 年報第5号
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顆だけのもの,さらには,種類の異なる印を使用している場合等,様々なバリエーションが見られる。これらの相違については,応挙自身何らかの区別をしていたと考えて当然であろう。とすれば,その区別は何によっているのか,大きな疑問点であるが,この問題も将来の課題としておきたい。6.「応挙」「仲選」(朱文方印)の二顆を有する年紀落款は,「山水図」(薮本家,No.50)が初見である。他には,天明7年(1787)の「王義之竜虎図」(大乗寺,No.82),寛政元年(1789)の「牧童図」(藪本家,No.94),寛政5年(1793)の「山水図」(黒川古文化研究所,No.101)の3点が知られる。他にこの2印を使用した作品は,いずれも年紀が記されていない。今回も「落款譜」から除いている。7.“源”姓を使用する初見は,「折枝花丼図」(月鉾保存会,No.64)である。これは月鉾の天井に描かれたもので,印はなく花押が書かれている。しかし,収集した図版の中では,「遊鯉水禽図屏風」(松岡美術館)の左隻に「天明紀元辛丑晩夏写源応疇(応挙之印)白文」とある。これは未見であるが,もし真作と判断されれば,“源”姓の使用年代を天明元年(1781)まで潮ることができる。8.天明7年(1787)の金刀比羅宮表書院の「虎図襖」(No.SO)に,大形の「応挙之印」(白文方印)が用いられる。この印の使用例は,いづれも寛政7年(1795),即ち,応挙の歿する年の「松に孔雀図襖」(大乗寺,No.106),「鍾旭図」(大乗寺,No.107)「保津川図屏風」(西村家,No.108)である。「虎図襖」(琴平宮)をもって初見とされるとともに,歿年に使用される作品以外,今の所,見つかっていない。9.明和3年(1766)より使用されて来た「応挙之印」「仲選」(共に白文方印)が,天明7年(1787)暮頃より(No.85)「応挙之印」のみが押され,「仲選」の印は,1, 2の例を除いて(No.88,103)用いられなくなる。No.88「四季花鳥図屏風」(頴川美術館)は,多少疑問が提出されているので,しばらくおくとしても,「山水図襖」(金刀比羅宮,No.103)は,「仲選」印を使用している。10.応挙の落款は,その性格を反映して謹直なものであったが,最晩年に至ると体の署名を行う例が見られる。年紀落款で確認できるのは,No.102「池鯉図」(薮本家)の寛政6年(1794)のみにすぎない。他に,「四季之月図」(白鶴美術館,No.109),「山水図」(薮本家,No.110),「四季月図」(薮本家,No.111)が知られるが,共に年紀はない。しかも,No.109は,「応挙之印」「仲選」の2顆を押しているので,やや早い時期(天明末年頃)かと考えられる。-84 -

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