鹿島美術研究 年報第5号
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(4) その他,具体的には後考にゆずる。ともあれ,「応挙」の草書落款は晩年に用いられたと推定しておきたい。11.寛政7年(1795)63歳,この年7月17日に,応挙は歿するのである。先にも触れたように,この年に入ると大型の「応挙之印」(白文方印)と「仲選氏」(朱文方印)が使用される。12.さて,「応挙之印」「仲選」(共に白文方印)は,明和3年(1766)34歳から,歿年の寛政7年(1795)63歳まで,丸30年間使用される。その間,この2つの印は少しづつ磨滅が進行し,印の周囲が丸くなって行く。その様子は年代順に追って見れば明瞭である。例えば,No.19とNo.103の最初と最後の印を比較すれば,歴然としている。ところで,こうした印のタイムスケールを規準に考えてみると,「七難七福図巻」(円満院,No.27)に押されている「応挙之印」(白文方印)は,その時期(明和5年)の他の印よりも磨滅の度合が大きい。即ち,年紀の時期と印の磨滅度が合致しないこととなる。このことは,落款が後半(応挙自からの手で)入れられたのか,それとも印だけ後から押されたものか,いづれにしても大きな疑問といわなければならない。13.印のみの比較により,以下の作品について疑問点があることが判明した。現時点ではコメントを避け列挙するにとどめる。(1) No.10「猛虎図屏風」(薮本家)(2) No.61「富士三保松原図屏風」(白鶴美術館)(3) No.79「四季山水図屏風」(大和文華館)むすび,以上は,度々触れているとおり,現時点における集積データをもとに検討した結果,明らかとなった問題点である。今後さらにデータの蓄積が進み,また,様式・作風の検討をも加える段階に至れば,これらの疑問点の多くも,必然的に解答が導きだされるのではないかと考えている。それ故,この報告は中間時点における疑問点の提出としておきたい。-85 -

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