の10人いた子の一番下の子で,彼女の二番目の姉ビートリックス(1855■1896)が,60歳を越していたホイスラーのこの時の悲しみは,当時の手紙に切々と綴られている。ことなく,生涯の大半を過ごしたイギリスには,画家生前にゆかりのあったスコットランドのグラスゴーに膨大な量の資料が保存されている。これは,主としてホイスラーの妻の妹ロザリンド・バーニー・フィリップ(1873■1958)旧蔵のものである。ロザリンドは,スコットランド人の彫刻家ジョン・バーニー・フィリップ(1824■1874)ホイスラーと1888年結婚したのであった。ビートリッスクは,ホイスラーの友人で建築家のゴットウィン(1833■1886)の妻であったが,この時夫と死別して2年目であった。ところが1896年結婚生活8年目でその姉も癌のために没してしまった。すでにこの最愛の人に最も近いロザリンドに,ホイスラー自身は晩年7年間の世話をしてもらい,死後は遺言執行者として,遺産の管理を任せたのであった。どうやらホイスラーの世話というのも大変だったようであるが,しばしば彼女自身の母,ホイスラーからいうと亡妻の母とともに面倒を見たようである。1903年ホイスラー没後,ロザリンドは,亡き姉の夫の書簡の収集を始めた。それは,遺産の管理者としてそうした資料の無許可の刊行を防ぐためからも,ホイスラー芸術研究の上での資料的価値を確保するためでもあった。そして彼女は,集めた資料を永らく手元において,公にすることはなかった。一方,1891年グラスゴー市自治体(theCorporation of the City of Glasgow)は,ホイスラーの作品『トーマス・カーライル肖像』(1872年)を購入した。カーライルは,スコットランドの出身だったのである。これは,ホイスラー作品が公的機関のコレクションとなった最初のことであった。その後まもなく,『カーライル像』に先立ち,その制作の上でのベースともなった『画家の母の肖像』(1871年)が,パリ,ルクサンブール美術館(現在は,ルーヴル美術館からオルセー美術館に移管)に入っている。つまり,ホイスラーがしっかりした社会的評価を得ることになった契機の最初の証が,グラスゴーであったのである。さらに,グラスゴーには,ホイスラーの多くの追随者もおり,ピーコック・ルームのもとの持ち主で,ホイスラーの有力なパトロンであったレイランドもグラスゴーの実業家であった。また前記のごとく夫人の一家もグラスゴーの出である。さらにホイスラーの没する2,3か月前にはグラスゴー大学が,彼に対し名誉博士号を与えている。こうした経緯があって,ホイスラーの遺産の管理者ロザリンド・バーニー・フィリ-87 -
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