Realism to Symbolism : Whistler and His World, 1971, p.128)それはともかくとしWhistler Journal, 1921, p.31) 名前が記され,予め着席の場所が定められていたようで,ホイスラーが講演したときの実際の模様を知る上での貴重な資料と言えよう。またオリジナル原稿や草稿を綿密に検討すれば,ホイスラーの芸術観の集大成ともいうべき『テン・オクロック』の新たな理解が期待できよう。それ以外で特に注意を引いたのは,Artis the Science of the Beutiful. (W783)と座右銘のごとく書いて,署名かわりの蝶のマークを記した一片の資料である。データ・カードによると1885年ないし90年頃のものとされている。だとするとテン・オクロック発表の頃ということになるが,改めてホイスラーがScienceということばに,いかに執着していたか知られるのである。実は,このことばをホイスラーは,1870年代のはじめから使っていた。例えば1871年の友人の画家ファンタン・ラトゥールに宛てた手紙ではlascience de la couleurと,あるいは1873年の初期のパトロン,リューカス宛の手紙にはthescience of colorと記して,自己の進めていくべき芸術の指針として語った中で使っている。このことばを手掛かりに新印象主義者スーラの科学主義に対するホイスラーの影響が,すでに指摘されたりもしている。(Stanley,A., ed., From ても,scienceということばの使用については,この語を「科学」と訳すか,「学」あるいは「学問」と訳すかによって幾分意味合いが違ってくるが,少なくとも有名なところでレオナルド・ダ・ヴィンチにまで遡ることができる(scienzadella pittura)。となると,ホイスラーは,意外にオーソドックスな主張をなしていたことになろう。ひょっとすると近代絵画あるいは現代絵画または近・現代美術を検討する際には,もっと古典的な芸術との関わりを追及してみる必要があるのかもしれない。ホイスラー自身も西洋美術は,伝統の継承であると語ったことがある。(Pennell,E. R. & J., The -89 -
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