長13年(1608)に高野山に聖像を描かせたりしている。等林は,薩摩出身で,山口のについては,昨年の調査研究の中心的課題となり,「鹿島美術財団年報4号」に報告した。本年度は,今まで鹿児島において作品もあまり発見されず,文献に頼っていた木村探元以前の御用絵師の様式について,尚古集成館の作品調査を基本に考察することに重点が置かれた。それは,薩摩藩御用絵師の画風の誕生をも意味する。さらに,探元以降の御用絵師の研究をも合わせて薩摩藩御用絵師の面風の特徴を総括的に考察することも試みた。以上を中心に報告する。島津家久の時代,薩摩藩の御用絵師の名や作品を見ることはできない。ただ,文禄年中の人として狩野光信に学んだ白谷卜斎という画人がおり,桃山時代からすでに薩摩には狩野派の画人が存在している。幕府に倣って御用絵師制度を採用することから,狩野派の絵師が薩摩画壇の中心になってくるが,家久の時代,薩摩藩は狩野派が画壇を独占していたであろうか。家久は,日野等林という画人に「宇治川の屏風」や,慶周徳に学んだ波月等薩の門弟であり,雪舟系水墨画の流れの中に属する画人である。薩摩は,秋月等観に始まる雪舟系水墨画伝統の地であり,この流れが江戸時代初期まで受け継がれ,藩主の許で活躍していたとも解することができよう。狩野派が画壇を独占してはいない。この時期に制作されこの画系に近いと思われる作者不詳の「文殊菩薩図・芦雁図(三幅対)」も,新たに尚古集成館から発見された。さらに,家久は藩主になる以前の時期に,市来家鎮(生没年不詳)という画人に,「三十六歌仙絵扁額」(鹿児島県姶良郡良郡町・新正八幡神社)を描かせた。家鎮の画風は,素朴な地方性を漂わせたもので,家久時代は,種々の画派,画人が存在してい.たことが窺われる。このような状況から,画壇を狩野派が独占する動きは17世紀中頃まで続けられるが,これは,他藩との比較研究から,全国的な傾向であるとも理解できる。たとえば,尾張藩では,寛永20年(1643)狩野尚信の門人,清野一幸が江戸で召し抱えられ,尾張藩の御用絵師の画系を築き上げている時,画系不明の伊島牧斎という画人が並存している。黒田藩も,寛永10年代に,室町・桃山時代,山ロ・九州に強い影響力を持った雲谷派に最初学んだ尾形仲由を藩命で探幽門人にさせ,黒田藩御用絵師に任命している。しかし,寛永12• 3年頃に制作された「鞘鞘人狩猟図屏風」は,長谷川派の作で,黒田藩の御用絵師の体制が整うまでのこの時期,雲谷派,長谷川派-94 -
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