鹿島美術研究 年報第5号
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の併用時代が存在する可能性があると中山喜一朗氏は述べられている。(中山喜一朗「筑前黒田家伝来鞘鞄人狩猟図屏風について」国華1007号)薩摩藩も家久時代が過ぎ,島津光久(1616-1694)が2代藩主として寛永12年(1638)に家督を受けると,狩野派に学んだ米村祐以(生没年不詳),内藤等甫(-1664), 等甫に学んだ山口等月(生没年不詳)という絵師が御用絵師となる。光久自身,狩野探幽を尊敬し,作品も遺した人物で,彼の許,他派の絵師の名前も見えず,この時期より,狩野派が薩摩画壇の主導権を握っていくことになると思われる。(ただ,等甫,等月とも「等」の宇を持つことから,元来,雲谷派で,後に藩命で狩野派に学ばされたのかも知れない。このようなことは,各藩においても見ることができる。)従来,この時期の薩摩藩の御用絵師については,文献のみで作品は見ることができず,その作風研究は不可能とされてきた。ところが,本年度の調査において,前記の三名かどうかは不明であるが,この時期の御用絵師の作品と思われるものが尚古集成館より発見された。それが,島津光久筆と伝えられる「犬追物図(三幅対)」である。この作品は,正保3年(1646)桜田島津邸で将軍に見せるかどうか下見をした時,翌年王子ヶ原で行った時の犬追物の様子を故実に則して正確に記録的に描いたもので,桜田邸の場面には光久も登場する。この絵画は,狩野探幽の影響を受けた大和絵的表現の中に,硬質の描線,淡彩を用いた狩野派の絵画ではあるが,中央の狩野派の絵画に比べ,素朴でやや稚拙であるとも思われる。これは,地方性を示すのであろうか。同様の作品として,光久時代の犬追物故実家で,前の三幅対と中に検見としても場する川上十郎左衛門久慶(1574-1665)の印を有する「十七問答之抄」(尚古集成館)中の犬追物図があげられる。この作品も落款がないので筆者の判断はむつかしい。「犬追物図(三幅対)」については,光久筆と伝えられていると前述したが,専門絵師の作品と考えた方が妥当であると思われ,そこで,これら両作品は,前記の3名の御用絵師を含めた,当時の薩摩藩御用絵師の作例と見ることが可能なのではないだろうか。狩野派の様式を基本に,素朴さを漂わせた穏和な表現は,薩摩的ともいえる独自の個性を見せてはいないが,薩摩藩御用絵師の絵画様式の始まりを示す作品として,きわめて重要である。各藩においても,この時期,それほど個性的な画風は成立していないように思われ,薩摩藩も,全国と軌を一にする傾向を見せているとも見ることができる。この画風は,木村探元より少し年長の御用絵師,坂本養伯(1662-1730)の作品に-95 -

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