鹿島美術研究 年報第5号
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も認めることができ,木村探元以前までの薩摩藩御用絵師系画風の基本であったのかも知れない。その意味からも,今回の作品発見の持つ意味は大きい。このような御用絵師の画風は,木村探元に至って,狩野派の枠は越えてはいないが,薩摩の風土性に根ざした個性的な様式に展開する。探元を中心にした画風については,昨年報告した通りであり,重複を避けるが,本年度は,探元以降,幕末までの画風展開にも研究の範囲を少し広げてみた。そこで注目されるのは柳田龍雪(1833-1882)である。地元で,狩野派の馬場伊歳(1783-1854)に学んだ後,江戸で狩野養信の門人となった龍雪の作品は,尚古集成館に数点遺されている。その代表的作品は,「英艦入港戦争図(薩摩戦争絵巻)」である。狩野派の謹直な表現の中に,師,馬場伊歳の「無参和尚図」(尚古集成館)にも共通する細線を用いた細密描写と,幕末のシャープな感覚に関係しているのと同時に,秋月,探元にも共通する南国薩摩という地理的環境から来るとも思われる色調の高さを特徴としている。このように,薩摩藩こ御用絵師の画風は,初期においては全国的傾向と軌を一にしながらも,中期以降,狩野派を大きく逸脱はしないが,地域性に根ざした独自の画風を持つ御用絵師の登場により,少し特徴のある発展を遂げ,幕末のシャープな気風を持つ画風に展開するように思われる。これは,世間でよくいわれる狩野派のマンネリズムがあまり感じられないという意味でもあろう。以上のような展開を生じさせた1つの要因として,薩摩藩では,御用絵師の継承において世襲制を採用しないということをあげることができよう。薩摩藩は,すべての分野に世襲制を採用しなかったのではなく,有職故実の伊勢家,犬追物の川上家,料理の石原家,武芸の東郷家など,藩の文化に重要と思われる部門の多くは世襲されている。なぜ,絵画は世襲制を採用しないのか,興味深い問題である。絵画は実力主義で受け継がれるべきであるという考え方や,絵画は世製に価せず職人的なものであるという考え方などが可能かも知れない。明確な解答を得るまでには至らなかった。今後,他藩との比較研究を合わせて,継続して考察すべき問題であることが認識された。いずれにしても,世襲制を採用しなかったことにより,薩摩藩の御用絵師の画風は,粉本の継承によるマンネリズムに陥ることなく,薩摩の地域的特質(剛直な精神など)にも影響された特徴ある展開を見せることが,今回の調査によって実証された。そして,その流れの中心に木村探元が存在するのである。もちろん,木村家も世襲で探元の絵画を継承してはいかなかった。このような考察は,従来の研究からは不可能であ-96 -

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