鹿島美術研究 年報第5号
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”がわえ図1中国楼閣図(中国製・反射式眼鏡絵)外することのできない璽要な位置をしめている。しかし,この西洋の線遠近法がどのような経路をたどって浮世絵師のところまでやって来たのか,という疑問には,いまだ明確な資料が提出されていない。今のところ,最初に日本に伝えられたのは,西洋画法の影響をうけた中国絵画(もし〈は版画)だったのだろう,という見方が有力である。直接的に西洋絵画を奥村政信たちが目にしたのではな〈,いったん中国で消化され変容した線遠近法を模倣した,と考えるわけである。(図1・図2)中国の西洋化した絵画が日本に舶載され,それに触接されて初期の浮絵が1740年ごろに生まれ,ただちにその新奇性に衝撃をうけて,同構図を模倣する追随者が出,おおいに浮絵の流行を見た,という流れを想定するのである。そのわずか後,宝暦末〜明和初年ごろ(1760■1767)になって,ようやく西洋から直接に風景錆版画が舶載されたと筆者は推定する。筆者は,その西洋風景画の多くは,のぞき眼鏡(オプティーク)に付属してもたらされた銅版眼鏡絵(ヴュー・ドゥ・オプティーク)だったのだろうと推察する。ヨーロッパにおいて眼鏡絵として制作されたものではない通常の風景銅版画も18世紀後期に舶載されているが,それらも日本では眼鏡絵として鑑賞されることが多かったと考えられる。中国における民衆絵画に影響を与えた西洋絵画とはどのようなものだったのかを知るには,日本では充分な研究はなし得ない。しかし,宝暦末〜明和初年ごろ以降に日本に舶載された西洋銅版画類を調査することは,伝来の確かな資料を丹念に探って行けば可能である。そして,それらを吟味した後,資料の制作年代や背景については,当時,長崎・出島を通じて日本と交易を行っていたオランダヘおもむいて調査をする必要がある。木版筆彩-98 -図2吉原大門口奥村政信画木版筆彩

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