こうかつ(13) 京狩野家伝来文書粉本。日記類の調査一御月扉絵様窺拍について一なった。注目しなければならないことは,京都における当時の日本のすぐれた絵師たちが,これらの銅版画を,まぎれもない「西洋画」として見ていたであろうということである。従来,いわゆる「応挙の眼鏡絵」などを語る時,漠然と「西洋画の影縛」と記されることが多かった。しかし,一例とは言え,これらの銅版画の詳細が明確になることによって,舶載された西洋画に関する,より具体的な考証が可能となるはずである。これらの風景銅版画に共通する広闊なヴィジョン,周到な線遠近法構成,建物の周辺に点景として配された人物表現などを当時の絵師たちはどのように看取したのか。そして,どのように受容し,または参考にしなかったのか。江戸期に喜望峰をこえてオランダ船によって日本にもたらされ,幸運にも今日に伝えられたこの資料を,今後,美術史的視点で解釈し,受容と変容の過程を検証して行く作業が筆者の新たな課題として立ちあらわれて来るのである。研究者:大阪市立美術館主任学芸員脇坂研究報京狩野家は由緒書(略目録②)によると,永良の代,明和7年(1770)9月から御月扇御用の仲間入りをした。御月扇は「古へよりありしや,永享(1429■)の比より改まりし欺とも聞ゆ,御絵所預りの家より,月毎の晦日に先達て,調進ある事にて云々」(『扇之記』)といわれ,中啓ないしぼんぼり形態の末広に源氏絵や聖賢,季節の草花,花鳥が描かれた。文月の御いわひの節に御宮づかえの方々が給ったとも伝えられる。「画所土佐守家系図」は,光吉の項に「御年扇御月扇調進之事及中絶数年」とあり,また光則の項にも「御年扇御月扇数年献上」などと見え,土佐家は代々御月扇の調進を掌っている。さらに禁裏絵師に召された鶴沢家も御月扇の御用を承るようになっていた。幕末期の土佐,鶴沢,京狩野三家が受ける御月扇料は略目録⑦が伝えるように,土佐家が十人扶持に銀三十枚,鶴沢家は五人扶持に銀三十枚,狩野家は銀十五枚と,土佐,鶴沢両家が断然優位にあったことが知られる。それとも永岳の歎願書にあるように,同様の仕事をしながら格差が歴然としていたのである。京狩野家にとって明和7年以来100年余の御月扇御用であったが,その最末期にあたる慶応4年から明治5年迄の記録が「御月扇御絵様窺拍」(略目録⑩)である。この「窺淳-107-
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