鹿島美術研究 年報第5号
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3月表:柳流水,裏:月かうむり4月表:若芦(あしらひ水辺螢),裏:卯の花時雨鳥相」に従って御月扇調進の様子を少しく見ていくことにする。まず,奉書を四っ折にし,内側二っ折の箇所に「御表,初雁,御裏,荒磯。御表,稲,御裏,群雀。」といったように二組の表裏の画題を書きしたため,当月分と来月分を末広(中啓)上にのせて勘使所へ窺をたてる。例月5日迄に窺書を出し,19日に出来あがりを納めていたらしい。窺紙の当月分は既に画題の決っていたものを記し,来月分は二組のうちからどちらかに選定してもらうためのものであった。「窺担」には各月二組の画題が記され,そのいずれか一組の文字の横に墨線が引かれていることから,墨線のあるものが選ばれた画題と解される。慶応4年は明治へと御一新の年にあたり,同年8月からは勘使所へ出していたのが用度司へとかわり,窺紙も一紙にするようにとの仰せが出ている。そして9月以降は当年分をまとめて窺出し,調進を上旬のうちにするよう用度司より沙汰が出,さらに来年中の御月扇窺書を10月21日迄に調えるよう指示されている。「窺担」中の明治3年「八月九日返書控」という項目に,御月扇調進ホ来,上旬の分は前月15日迄,中旬は前月25日迄,下旬は本月5日迄に調進するようにと,宮内省用度司より土佐,鶴沢,狩野三家宛の文面がある。これから推測するに,土佐家は上旬の分を,鶴沢家は中旬の分を,狩野家は下旬の分を調進していたかに思われ,かつて狩野家が前月19日に調進していたのと状況の変化が見られる。それは翌年も同様明治4年9月晦日に同5年分の窺書を差出している。ところで明治5年9月29日に差出した窺拍によると,これまで毎月三家から各一本,計三本ずつ調進されていた御月扇が同年8月から計二本になった。従って三家が申し合わせ月交替で二本ずつ,つまり三月毎に二本宛調進することになり,同年の窺書は翌年(明治6年)の分,狩野家にとっては3月,6月,9月,12月分の窺が記されている。これは新時代になり次第に古格慣例が崩れていくことを示す記録として受けとれよう。次に慶応4年分の決定された狩野家家の御月扇図様を拾い出してみる。(6ヶ年分すべてについては紙数数の関係上省略する。)正月表:海辺の松,裏:旭2月表:雲雀(なの花あしらひ),裏:墨絵梅林-108-

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