鹿島美術研究 年報第5号
134/290

3月永岳は禁裏御絵師御腎次席を受ける。以上の内容を永岳が天明大火(1778)によって旧記が失われ委細は申上べ兼ねるとしながら,勘使所からの御尋ねに対して嘉永5年(1852)に差出したものの写し。3部とも大同小異の内容。③ 病気煩の口上書写(天明7年2月)1通大病煩のため御用の代勤を勘使所宛願出た口上書写。天明7年(1787)2月の日付から同年同月1日に没した永常のものと考えられる。④ 跡目相続願写(文化13年9月)1通永俊が27歳の泰助(永岳)に跡目相続されたき旨,勘使所へ顧出た口上書写。⑤ 永後の死亡届写(文化13年10月)1通泰助(永岳)が差出した口上覚。⑥ 跡目相続願写(慶応3年10月)2部永岳が内記(永祥)への跡目相続願を勘使所へ出した口上書写。2部とも同一内容。⑦ 御月扇料加増願写(元治元年5月)2部永岳が相続後49ヶ年の間禁裏御用を勤めてきた時点で,近年の金箔が絵具などの高騰を歎いた加増願。御月扇調進の拝命を受ける三家にあたって土佐家は10人扶持に銀三十枚,鶴沢家は5人扶持に銀30枚,狩野家は銀15枚,同様の調進をしながら格差のあることに不満をもらし,救済方を勘使所へ願出ている。2部とも同内容。⑧ 御月扇料加増願に対する御達の覚(慶応2年4月11日)2部⑦の歎願に対し勘使所より当分の間上納米のうちから盆暮に銀10枚宛加増する旨の御達覚。2部とも同内容。⑨ 御月扇料再加増願覚(明治3年4月)1部永祥が慶応3年11月の養子相続の礼,元治元年の加増願の礼,からびに鶴沢家同様の手当,年に金15両を頂戴できるようになった礼を述べながら,恐縮しつつ諸色高騰の故にさらに加増を願出たもの。⑩ 御月扇御絵様窺拍慶応4年(1868)正月から明治6年12月分迄の御月扇御絵様を窺出たもののオ日。⑪ 御用拍(1)永岳時代最晩年から永祥の代にかけてのオ日。末広や御月扇の調進のこと,九条家や本願寺への御礼のこと,転宅のこと,御贈禄のことなど内容は種々である。年記2冊1冊-110 -

元のページ  ../index.html#134

このブックを見る