(16) 敦煙四天王図像の研究また,谷氏の挙げられた文献資料の中には現存する芙蓉図,柿図,栗図と対応するものがないため,この花丼雑画巻の問題は戸田禎佑氏によって先鞭をつけられるまであまり省みられることがなかった。日本に伝来した花丼雑画巻はおそらく早い時期に切断されて諸方に分散したため,これらの断巻は記録されずにきたとも考えられるが,能阿弥筆花鳥図屏風の如き作例が近年発見されるに及んで,この問題を現存する作品を手がかりに考察することが益々重要になってきたことは言うまでもない。現在までの調査によれば,日本側の資料に見られる花丼雑画的なモチーフは,台北本,北京本双方と共通項をもっており,さらにそれ以外の要素も見られるところから,おそらく日本に伝来した花丼雑画巻はより長大なものであったか,あるいは数本あったかという推測かできる。おそらく牧硲自身このような画巻を複数制作していたと考えるのが自然であろうし,さらにそこに蓄積されたモチーフをもとに多くの掛幅にヴァリエーションが生まれたことが想像される。室町の画家達にとってこの牧裕画を通じてもたらされた特に花鳥画の分野におけるモチーフ,パターンは,少なくとも雪舟系花鳥図屏風に見られるような浙派系の要素が流入し,さらに狩野派による新たなマニュアルが成立するまでは,他の中国画家と比べても圧倒的な量と質を備えた最高のマニュアルであったのである。研究者:東京国立博物館資料部研究員研究報告:四天王は,インドのヴェーダ・ウパニシャド時代に宇宙創造神の巻属として生まれ,仏教にとりこまれて護法神として説かれるようになった。本来仏教独自の神でないため造形化にあたっての制約もなく,インドの貴人形が西域を経て中国に至る間に武人形として完成をみたと思われる。我々衆生が生まれ死に,輪廻する領域としての無色界,色界,欲界のうち最も下にある欲界の六欲天の中では一番高い四天王衆天に四天王は住むとされる。その住居は須禰山中腹にあり,須禰山下の四方四州を護る存在となった。盛行する大乗仏教の影評を受けたガンダーラ地方では,いつしか須蒲山とヒマラヤを同一視するようになり,現実のインドを閻浮提とみなすようになった。その結果,ヒマラヤ(須禰山)との位置関係によって,インドは増長天(南方),ガンダーラ地方は広目天(西方),そして中央アジアは昆沙門天(北方)を特に信仰することと信祐爾-122-
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