鹿島美術研究 年報第5号
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なったとみられる。四天王は,東アジア仏教圏に広まるにつれ,正法護持,正法流布の地を守護する役割から,国土守護,国家守護,鎮護国家のそれへ,さらには怨敵退散,除災招福をもたらす身近な神へと変化していったとみられる。経典類の分析四天王に言及する漢訳経典には大きく分けて二種類がある。第一の経典群は,その脊属,須弾山における城郭や支配方位に違いはあるものの,持物や身色には触れず。四天王がそれぞれ独立した尊格として区別されない点に特徴がある。四天王はf嬰塔をつけ,偏担右肩し,半珈跛坐か右膝著地胡詭して仏に合掌して対する菩薩形であらわされる。仏誕生や鍮城に立合い,仏の説法を聴聞するなど,この種の四天王は,仏に関係する場面で登場する静的な存在といえよう。訳出年代がわかるものだけで三十を超える経典が挙げられるが,三世紀半頃漢訳の185『佛説太子瑞應本起経』が最初期のものとみられる。第二の経典類は,四天王それぞれの身色,持物,配置にまで言及し,造形するにあたって典拠を提供するもので,約二十を数える。ここでは,四天王はおおむね眼目相で,甲胄姿の武人形であり,第一の経典類に比べて,天部(護法神等)の意識がより強く,仏ではなく,本尊となる尊格(釈迦如来,般若菩薩,不空覇索観音,千手千眼観音,大元師明王等)のまわりに造形化するように規定されているのが特徴で,今回調査した範囲では,七世紀半頃漢訳された901『陀羅尼集経』が最も早い。なお同経には「四天王像法」があり,道場に四天王像を安置し,呪文を十万遍唱えるならば「療病大験多得錢財」となるといい,この頃には四天王も現世利益的な面もあわせもっていたことがわかる。なおラマ教図像の典拠として十三世紀末漢訳の926『薬師琉璃光王七佛本願功徳経念誦儀軌供養法』と十九世紀前半漢訳の928『修薬師儀軌布壇法』が挙げられる。第一の経典類は,唐代までの,第二の経典類は唐代以降訳出のものが主体とみられる。ィンドにおける四天王図像表現は,中インドのバールフトのストウーパの北と南入口の隅柱上にある二天(北方昆沙門天王と南方昆棲勒叉天王を意味する銘文をもつ,他の二天は失われた)を喘矢とし,その制作は紀元前二世紀半に遡ぼるという。ここでは,ターバンを巻き,装身具をつけた当時の貴人そのままに,二天とも同一の像容― 四天王図像-123-

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