置に二通りあるのとあわせ,四天王の配置に限っても,唯一絶対の基準・規範はなかったと考えられることである。二天あるいは四天王絵画作品(在パリ,ロンドン,ニューデリー)も含めて,敦煙の四天王図像を総合的に検討すると,遅くとも八世紀半頃には,四天王としての一応の祖型が完成していたとみられる。持物をみた場合,時代を問わず見られるのは,長剣・鉾・宝塔であり,なかでも宝塔は,北方昆沙門天の標識として不可欠な存在で,左手掌上に宝塔をとるもの(19例),左手掌上(7例)と両手掌上(2例)がみられ,左手に宝塔,右手に鉾を執るものが一番多い。長剣については,鞘入りのまま,地面に垂直に立てたり,柄を持ったり,抜刀して上方に立てたり,胸前斜めに構え,切先を逆の手で受けるなどの変化があり,東方天,南方天,西方天にみられる。また,七世紀末漢訳の1097『不空覇索陀羅尼自在王呪経』では西方天の持物,八世紀初漢訳の1239『阿托薄倶元師大将上佛陀羅尼経修行儀軌』では南方天巻属の持物とされる弓(矢)に注約すると,中唐から五代にかけて14例があり,大きな護耳つき盛をつけた東方天に擬せられる天王に多くみられる。なお,五代を境として東方天の持物が弓(矢)から,宝棒,琵琶へ,また南方天のそれが剣から弓(矢)か,剣を胸前で斜めに構えるように,さらに,西方天は,それまで垂直に立てていた剣にかわって索をとる傾向が認められる。漢訳年代は大きく遅れるものの,ラマ教経典である926,928では,東方天は琵琶,南方天は剣,西方天は絹索(蛇索928),北方天は宝叉(宝鼠928)を持物とすると規定されている。一方敦煙の地は,早くも中唐期に吐蕃の支配を受けており,五代窟窟頂では銘文を伴って琵琶を持物としている東方天の例や,スタイン将来の(北方)天王断片では,その巻属である乾闊婆にマングースを持たせるなど,ラマ教国像が,経典の漢訳をまたずに浸透していった様相がうかがえる。今回抽出しえた儀軌以外のものが,敦燈に伝来したこと,口伝や図像のみの伝来も想像に難くないので,今後は,今回の基礎的作業を踏まえて,周辺諸地域の壁画における四天王表現を比較検討の材料とし,東アジア仏教圏における同図像のもつ意味を考察してゆきたい。-126-
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