かやのいんである。例えば,条吊の主部は暗色を呈しているが,実は銀泥地に群青のくまを加えた表現になるもので,当初は華麗とまではいわずとも,玲瑠な輝きを放っていたことがわかる。条吊縁の赤地に加えられた暗色の文様も銀泥である。また蓮華座にかかる下衣も,条吊同様,銀泥地に群青のくまをかけ,さらに裁金文様を付加した表現になる。こうした銀泥の使用は着衣や装身具に多用されるのみならず,岩座の突起部にくまとして施されたり,下方の水面に加えられたり,挙身光のくまとして用いられたり,かなり広範囲の使用が認められる。さらに,蓮華座の弁脈や,頭光・身光の文様部には,暗い銀色の発色を呈している部分があり,これが一見,銀箔の戟金のように見える。しかし,これは銀箔の上に金箔を重ねた,いわゆる仏師箔と呼ばれるものが用いられたと考えられ,金裁金が脱落したため下層の銀裁金が露呈したものである。つまり,光背部は,当初はほとんど全て金裁金の発色を呈していたとみてよい。本作が与える地味な色調という印象は,このように,銀泥の酸化,および金裁金の脱落によるところが大きく,元来はもっとはなやかなものであったと想像されよう。たしかに温かい中間色を多用する平安後期仏画の色調とは異質ではあるが,この地味な色調を宋画の影響に直ちに結びつける見方は修正する必要があると思われる。宋画の影響は,色調の側面よりも,むしろ頭光・身光・挙身光にみられる透明感を重視する表現や,微少な色調の差を意識して用いる精妙な色彩感覚といった,現実性表現の方に求められるのではないだろうか。銀泥の多用が日本仏画内部での自発的傾向であったのか,あるいはこれも外来の影響に依るものかという問題も含めて,宋画との影響関係は,今後の課題として残されている。(2)信仰上の背景について本作の制作目的として想定されて来たのは,密教修法の福徳法の本尊とする見方であった。しかし,12世紀における虚空蔵信仰の様相を文献史料に窺う時,これまで見すごされてきた重要な局面があることが明らかとなった。それは高陽院(鳥羽院の皇后)が晩年に催した「十斎講」に付属する虚空蔵信仰である。十斎とは一ヶ月のうちの十日に仏菩薩の像前で滅罪を祈る儀礼である。中国唐末の発生とみられ,日本では入宋僧裔然が天元5年(982)に図した記録が古く,次いで寛-128 -
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