の4年間に,少なくとも40回以上催した十斎講である。ところが注目されるのは,十仁4年(1020)供養の法成寺十斎堂の十斎仏が知られている。ところで大串純夫氏は,この十斎堂内に地獄絵があり,しかも十斎仏はそれぞれある種の地獄からの救済を期待されていたことを明らかにし,その背景に敦煙本『地蔵菩薩十斎日』あるいは『大乗四斎日』などの内容に近い大陸経典の伝来を推定した。今回の研究ではさらにこの見解を補強する材料が見いだせた。即ち,源為憲が天禄元年(970)に著した『口遊』で「十斎日」について触れる箇所がある。その内容は前掲の敦煙経に極めて近いもので,十斎仏と対応する地獄との関係も一致し,さらに十斎仏の尊名が敦煙経よりなお法成寺の十斎仏に合致するという特色が見られる。ただし,ここまでの時点では,虚空蔵は十斎仏の中に含まれていない。十斎仏信仰の次の現われは,高陽院が仁平2年(1152)から久寿2年(1155)まで斎講の日並の中に「十三日虚空蔵講」という項がある点である。これ以外の十斎仏の導名と日並の配当は,ほぼ敦燈経に近い。しかし,重要なのは十斎仏関係の経典には=日という日並も,虚空蔵も全く登場しないことである。さらに,十斎講の登場する『兵範記』や『台記』を調べてみると,十三日の場合のみ「十一斎虚空蔵講」と記されていることに気づく。これは何らかの理由で,高陽院が十斎仏の中に虚空蔵を付加したと結論づけられるのである。では十斎仏に虚空蔵を付加できるモーメントは何であったのかが問題になる。今回の研究では,それは滅悪趣つまり地獄に堕ちないように救済する虚空蔵の性格がそこに想定された。奈良時代より信仰のあった虚空蔵の関係経典『虚空蔵菩薩経』『観虚空蔵菩薩経』には,堕地獄の重罪が虚空蔵によって減除されることが説かれている。さらに密教修法の儀軌である『求聞持法』でさえも,そうした性格に触れている。この地獄救済こそ,虚空蔵が十斎仏中に組み入れられるモーメントであろう。このように,12世紀の中頃,高陽院によって十斎仏的な性格をもつ虚空蔵信仰が鼓舞されていたことが今回明らかになった。この時期の制作と思われる東博本が,高陽院のこうした信仰を背景に描かれた可能性は充分にあろう。特に,その作風の緻密さと雅びな情趣は「都ぶり」を示し,作域の秀逸さは,当時第一級の画技によるものと思われる。貴顕の発願者を想定してしかるべきものであり,高陽院との直接的関係は望めないまでも,間接的影響があるとみるのは不自然ではない。また,地獄救済といった虚空蔵の性格は仏画の方面では看過されてきたが,彫刻で-129-
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