第2にあげたいのは,滋賀県長浜市の良睛寺に伝わった「一家団業図」である。こられない印章のあることから,おそらく30歳代,それも35■36歳頃の作であろう。満願寺は仙匡が属していた古月派の禅僧たちとの交流のあった寺で,仙厘が松島へ行く途中立ち寄った可能性は高い。現時点では最も初期の作として貴重である。またその作風については,描線にぎこちなさは認められるものの,若いころの仙厘がもっぱら細密画を描いていたとする説とは異なり,すでに柔軟な省略描法を試みていたことが分かる。の作品にも,40歳代以降にはみられない白文聯印「仙涯」が認められ,「涯」の文字を使用する唯一の印章である。これも年紀銘はないが,30歳代半の作であろう。この作品で注目されるのは,その主題である。仙厘が風俗画や戯画の類いを描くようになるのは,一般的には65歳の幻住庵蔵「尾上心七早変り図」が最初とされてきた。しかしながらこの「一家団業図」の存在は,たとえ戯画的色彩が顕著ではないにせよ,すでに若い頃から風俗的な主題を手掛けていたことを示しているのである。ただ,「僧侶射姿図」にせよこの「一家団業図」にせよ,絵画の研鑽を目的として描いたという性格はない。むしろ絵が好きな一介の禅僧が,気の向くままに筆を取ったという印象を受ける。これに対して,滋賀県東浅井郡の安楽寺伝来の「書蹟屏風」は,仙厘の30歳代後半の書として貴重であるばかりでなく,若い頃の仙厘が,絵画よりもむしろ書においてすでに相当な研鑽を積んでいたことを教えてくれる。つまり仙厘芸術は,書に始まり,それを追いかけるかたちで絵画へ向かっていったのではないだろうか。いいかえれば,仙厘の絵画に関する本格的な研鑽は,40歳で博多聖福寺の第123世となった以降に始まるのかもしれない。ただ,このような見解は,今後の調査で,さらに30歳代の絵画遺品が多数発見され,修正される可能性も,むろんおおいにありえる。博多聖福寺着任直後の頃に使用したと証明できる印章は,小型の白文長方印「仙厘」である。つまりこの印章を,仙厘は聖福寺世代牒への署名(40歳)とともに使用している。この印章は,現時点ではそれ以前の使用は証明されていない。またこの印章を使用した年紀銘のない絵画作品も数多くあり,その制作時期が注目されるが,しかしながら,文書を除いた絵画への使用は,60歳代後半から70歳代初めに集中しており,この印が押されているからといって,その作品が40歳頃の作とは一概にいえない。た_ 132 -
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