だし同印使用の個人蔵「寒山・拾得図」双幅などは,作風からみて50歳以前の作の可能性を残している。これに対して,印章および作風の両面から,40歳代前半の絵画作品と確定できるものとしては,第1に個人蔵の「布袋図」があげられる。この作品には,「扶桑最初禅窟梵杜多拝画並賛」の落款とともに,やはり他に見られない朱文長方印「亜羊」と白文方印「梵山人印」が押されている。ここで注目されるのは,落款の「梵杜多」の号である。この号を刻んだ白文方印「梵杜多」が,前述の「書蹟屏風」に押されており,この号は晩年には全く使われない。さらにその作風は細密でありながらどことなく縮こまってぎこちなく,従って「布袋図」は40歳代のごく早い時期に描かれたと推定できるのである。この作品は,先の「僧侶射姿図」や「一家団業図」の持っていた禅僧の単なる余技的性格とは異なり,細部まで形態にこだわるところや,絵画としての体裁を整えたいという姿勢が窺われ,いわば画技習得への意欲を示している点で注目に値する。そのような意識が,かえって本作品を硬直させているとも解釈できよう。作風については,布袋の顔を正面から描き,ごく細い線と隈取りによって細密に描くところは黄榮画の影響を思わせ,注目される。次にあげたいのは,「寛政丁己秋梵杜多拝画他題」の落款と白文方印「義梵」「仙厘」が押されている個人蔵の「徳山和尚図」である。この作品は,これまでの調査の範囲では最も早い年紀(寛政9年,48歳)を持ち,さらに壮年期の作品に多く見られる白文方印「義梵」「仙厘」の使用時期を想定する重要な基準となる作品である。作風は,基本的には「僧侶射姿図」の表現がより整理されたもので,「布袋図」の生硬さは姿を消しているが,頭部,手足の白を表現するために外隈を施しているところや,正面向きの顔の造作などは「布袋図」に直結する。図上の賛文の文字が小さく一方に寄り,謹直な書体を見せるのも「布袋図」に近い。ここには,いまだ仙厘らしい福落さは認められないのである。壮年期初期における,他の基準印として,白文方印「仙厘之印」や,同じく白文方印「仙厘氏」がある。40歳で聖福寺住持となり,63歳で法席を弟子の湛元に譲って隠退するまでの期間を,その代表的な号「百堂」にちなんで百堂時代と呼んで差し支えないと思うが,この百堂時代に限って最も数多く使用したのが,白文方印「仙厘之印」である。ただしこの印章には,1種類の偽印が存在するので注意を要する。白文方印「仙厘氏」は,「仙厘之印」ほど使用例は多くないが,期間はほぼ同時期で,63歳以降-133-
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