して,建築ポートレートがそれを与えることにより,何らかの新しい意味が表現される可能性もある。(第4章)15世紀半ば以降の建築ポートレートパイオニアであったフランドルの画家たちは,建築や都市の表現をいっそう本当らしい,実際にありそうなものと感じさせることに成功したか,現実の建築モチーフをそのとおり正確に描写する,という意味からは,想像されるほどには大きな貢献をしなかったようである。世紀初頭の試みを継承発展させたのは,15世紀の半ば以降,フランスで活躍したジャン・フーケであった。フーケは,建築の時代,地域様式に対し,鋭敏な感覚を持っていた反面,物語が本来要求するものとは異なる写実的建築モチーフを積極的に絵画に取り入れ,より複雑な意味表現を実現している。とりわけ,『エチエンヌ・シュヴァリエの時諸書』には,建築ポートレートを含む重要な作例が数多く見出される。フーケはまた,建築ポートレートをより正確なものにしたが,周囲の景観と建築とのつながり,建築の向き等には,不正確な点がしばしば指摘できる。いまだ写実は完成の域に達していないのである。(21) 塚本貝助について一S.ビングと日本(3)研究者:京都工芸繊維大学工芸学部助教授研究報告:パリの美術商s.ビングと商業上の関係のあったと思われる東京のアーレンス商会の活動を明らかにするために,この商会に雇われて七宝を制作した塚本貝助(1828-1897)の活動を調査することが本研究の目的である。1.塚本貝助に関する文献塚本貝助についてはこれまで『実業之日本』誌・明治31年10,11, 12月・第10,11, 今回の調査でそれに先だち,それのもとになったと思われる貝助伝のあることが分った。それは『太陽』誌・明治29年12月・第24,25号に連載された吉岡芳陵氏の「七宝焼新紀元の開祖塚本貝助」である。これは貝助が死去するわずか一年前に書かれたものだが,作品について本人(あるいはその周辺)から直接取材したと思われるような1420年以降,北方絵画の中心は,フランスからフランドルに移る。自然主義絵画の12号に輌江釣氏が「七宝の名エ塚本貝助の伝」を連載していることは知っていたが,島久雄-139-
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