たし,その開始時期は貝助が遠島から上京したのと同じ頃であり,アーレンス商会の七宝はワグネルによる化学的実験と貝助の手わざによって,ヨーロッパ向けとして輸出されたのであろう。その図案に関してはワグネルも最初は絵画ふうのものをよしとしていたようであるが,すぐに七宝固有の装飾を考えるようになった。その最初は第1回内国勧業博覧会のときに表明されたが,9年のちの明治19年になってもその考えは変っていない。貝助はまったくの絵画模倣七宝論者であったとは思われないが,アーレンス商会においても絵画様式の作品をつくっていることは事実である。また,日本国内では第2回,第3回の内国勧業博覧会では審査員諸氏によってこの絵画様式は強く奨励されたし,その典型として,東京の涛川惣助,京都の並河靖之は高く評価されたのである。イギリスのコレクターであるボウズが明治17年に書いているところによれば,七宝でもつとも好かれる(海外で)のは幾何学的な菱形パターンだといい,自らも模様七を収集したから,アーレンス商会が製造し,輸出したのはこのタイプのものだった可能性は大きい。(近年のコウベンのように絵画様式七宝を高く評価する様子は見られない。)ボウズはさらに,近年,模様で埋められない,釉のみの余白の多い作品,つまりは絵画様式の七宝が多量に製造され,それがヨーロッパの市場をよく研究しているフランス人の監督で製造されるようになっているとも書いている。明治17年にはアーレンス商会は七宝製造をすでに中止していたが,かわってビング自らや弟のオギュストが日本へやって来,明治18年には横浜にビング商会を設立することになるから,その可能性は大きい。いずれにせよ,このフランス人の市場予測はまず当ったといえようか。明治36年にポンティングの紹介する並河靖之の豪邸の写真はそのことを物語っている。なおアーレンス商会についての文献や,ボウズ・コレクション,明治期七宝を多く収蔵しているジョージ・ウォルター・ヴィンセント・スミス美術館(マサチューセッツ・スプリングフィールド)等の調査は今後の課題である。-142-
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