考えられる唐代の檀像(比叡山前唐院に存在,現存せず)の持つ特徴に類似するものである。この特徴は,特に天台宗内において関心をもたれたものと推定され,それ故,現在,山形市の宝積院に安置される十一面観音像は,その特徴を明瞭に継承したものとして重要であり,造形上の特徴も含めて考察すると,円仁請来像(前唐院像)の影響下に造像された天台系の作例と推論されるのである。揚州出土像にこの特徴の見られたということは,揚州が円仁の入唐の際の最初の訪問地である点を考慮すると,俄に意義深いものとなってくる。すなわち,唐代揚州には,頂上仏に特徴を持つ十一面観音像が存在したことが証明され,さらに,当時の揚州は当代随一の商業都市であり,檀木のような南方産の物資が集散するターミナルであったことからも,檀像が制作されるには好適な地であったということができ,これらから,円仁は入唐時に,揚州において檀像を求得し,それを遂には日本に請来したと推論することが可能になるのである。それが前唐院像であり,日本においては,その影響下に宝積院像に代表されるような檀像様彫刻の作例が制作されたと考えられる。揚州出土像は石像であり,檀像様彫刻たる宝積院像との直接的な様式比較は困難であり,その方法は十分吟味される必要があるが,その間に存在する前唐院像の復元材料とすることは,現存作例が限られている中国彫刻の現状の中では,試みられなければならないことである。木彫像と石像という違いを承知しながら考察を進めるならば,揚州出土像のうちの一体の十一面観音像の面貌表現は,唐招提寺伝衆宝王菩薩像に見られる,円形に近い輪郭に造作を顔の中央に集中させ,眉の弧線を曲率強く刻み,眼差しを厳しくするという表現と共通性を持つものと思われる。従来の説では,唐招提寺像の制作背景には鑑真随行のエ人の関与が想定され,また,中国石彫との関連も指摘されているが,ここで述べたいのは,素材の違いを越えた表現の共通性をそこに認めることができるのではないかという点である。このことは,唐招提寺像を石彫的表現とする議論とは別の次元で,その祖形となるものが,鑑真ゆかりの地揚州に代表される揚子江下流域の造形に求められることの可能性をわずかながらも示唆するものといえるのではないだろうか。揚州出土像と唐招提寺像との共通性は,その臀数は別の問題としても,合掌する真手の形状(唐招提寺像では前膊半ばより先を欠失)や直立正面する頭体幹部のプロポーションと肉身部の抑揚,肩を幅広く造り怒らせるが,肩先を面取りするかのように丸く造る点などにも見出せよう。唐招提寺像が制作された時期との関連を考えるならば,揚州出土像の作期はおおよそ8世紀中葉から後半にかけてと推定されるだ-145-
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