鹿島美術研究 年報第5号
170/290

ろう。さて,前唐院像を図像的に復元して考えると,その頭部表現にはかなり複雑なものが生まれてきている。これは揚州出土像のもつ図像的特徴から,より展開したものであると判断できる。このことから,像の制作時期も円仁入唐の時期に近接するものと考えることが可能となろう。揚州出土像他の六腎十一面観音像の遺例を検討すると,その図像的特徴のいくつかは千手観音との共通性を示している。そして,その遺例は8世紀後半以降,9世紀あるいは10世紀のものが多い。すなわち,四臀の姿を説く不空による十一面観音経典の新訳が成立して後にその造像が活発化すると見倣されるのである。十一画観音像が,千手観音からの影聘も取り込みながら,より複雑なものへと展開してゆくという現象を,そこに指摘することができる。前唐院像は,まさに,そのような複雑化した図像に基づいて制作されたものと捉えられるだろう。ところが,日本においては多臀系の十一面観音は,現図蔓陀羅系を別にすれば,ほとんど根付いていない。数例の遺品を確認することができるだけである。また,頂上仏の形状でも,宝積院像のように明瞭な特徴を持つものは少ない。このことからでも,中国での現象は全面的に日本に及んでいるわけではなく,日本側の価値基準に基づく受容がなされていることがわかり,また,その伝播の仕方は,個別的な現象を通じてのものであったことが伺える。以上述べてきたように,図像を手掛かりとして,中国と日本の作例が必然性を持って結びつくことが確認される。そしてまた,揚州出土像の存在は,揚子江下流の造形と日本とのふたつの局面での結びつきを示唆してくれよう。第一に鑑真を経て日本に至るルート,第二に円仁を経てのルートである。その伝播の実態に関してのより具体的な考察,あるいは図像・様式移入の際のより普遍的な法則性に関しての考察など,これからの課題は多いが,本研究の現段階での成果を簡単ながらまとめてみた。-146-

元のページ  ../index.html#170

このブックを見る