(24) 増山雪斎とその周辺についてデザインの挿絵や写真は,かつてヒストリスムスの時代に建築・工芸・意匠手本集がそうであったと同じように,産業によるそのデザインの安易な模倣を助長し,ューゲントシュティールの質の低下を招〈誘因のひとつともなったと思われる。以上のように,われわれは,世紀転換期のドイツの総合芸術誌について,特にそのユーゲントシュティールとの関連に重点を置いて照明をあてた。今一度振り返ってみると,前世紀末に西洋の芸術界を新生の嵐が吹きはじめた頃,ドイツにおいてもこれを受けて,一群の進歩的な文化人たちが自国の美的文化再生への熱い思いをふくらませていた。彼らは,当代の芸術的世界の低迷を憂い,その根本原因をヒストリスムスにみてとり,これにとって代わる当代独自の新しい芸術を渇望した。折しも国際的なアール・ヌーヴォーが台頭しており,これがドイツにおいても新しい芸術として受容され,当代の文化革新運動と結びつけられてユーゲントシュティールヘと独得の発展を遂げるのであった。この際にその主要な推進力のひとつとして,またこれに関する情報伝達や意見交換の場として,注目すべき役割を果したのが,この頃に相い次いで創刊された総合芸術誌である。そしてこれらは,「パン」誌を頂点にしてその黄金時代を画したのである。しかしこれらはユーゲントシュティールの退潮とともに,あるものは廃刊となっており,ともすればその存在と意味が忘れられたり軽視されがちであった。しかし,われわれが本調査研究によって再確認したように,これら世紀転換期の総合芸術誌は,ューゲントシュティールの生成とひとつになっており,その実相を生き生きと今日まで伝えている。研究者:三重県立美術館学芸員山口泰弘研究報告:増山雪斎は江戸時代後期,伊勢長島藩の藩主である。しかし,画家,詩人,茶人であり,多くの文人墨客たちのパトロン的存在であった。為政者としてよりも風雅の世界の人として,その名は記憶されている。しかし,その履歴,多彩な趣味の世界にはまだ,踏み込んで考査が加えられたことがない。雪斎の時代,つまり江戸時代後期には,前代の一部文人たちによる文雅の世界は,より大衆的な文人趣味の世界へと変化を遂げていた。彼らの文雅は,座(サロン)のなかでくりひろげられる。雪斎のような大名も木村兼繭堂のような町人も,文雅を一-150-
元のページ ../index.html#174