と記していることから,この作品が実景描写のもとづく作品であることがわかる。「自讃山水図」(1803年・亨和3年)は,海保青陵(1755-1817)の需めに応じて描かれたもので,両者の交遊があとづけられるだけでなく,雪斎の長文の自讃から雪斎の絵画観の一端が窺える点が貴重である。弄古人之書画即如口其人風致髄格雅俗自分神飴無異且係風土之醜美不可不察也東破晩誠自州回抹大海風濤之気値字即是也猶未能免塞邊之気況生熱閑猥晒之地者乎蓋好事家多蔵古人之書画者閲古覧今考風土辮雅俗宜乎其所好逐為癖春秋癖煙霞癖其他潔癖眉癖石癖墨癖之類従外人観之可最笑然非抱彼癖者不能至其極也余無抱書画癖雖然隠棲子巣丘之別業則僻階野客之気不可免也偶應青陵先生之需作圏不堪野趣懸魏芙雅俗論を日本の風土と絡み合わせた,雪斎の絵画観が披漉される。雪斎には,以上のような本画のほか,「虫琢帖」(東京国立博物館蔵)・「長洲鳥譜」(国立国会図書館蔵)という写生画譜がある。実物写生の伝統は,狩野探幽の縮図・佐竹曙山の写生帖をはじめ,江戸時代を通じてあった。花鳥画の場合,江戸時代では粉本伝写の伝統に根強く阻まれて写生という行為がそのまま本画に活かされるケースはめずらしい。今後,雪斎調査の過程で,写生帖と本画とのあいだにモチーフの供給源・提供先といった相互関係が実証されるなら,花鳥画における写生の問題に新たな資料を提供することになるだろう。以上は,作品調査によって得た知見からいくつかを摘出してみた。雪斎の画域には従来いわれていた以上に多様性があることに気づかされる。この多様性は,結論からいうと,年代的な画風変遷とはいえない。というのは,リストには1786年から1814年までに制作された有年紀作品が掲出されているが,様式的に水墨の山水画,墨画の花鳥画,濃彩の南蹟風花鳥画に別れるそのいずれもが,年代的な偏りをみ癸亥小春巣丘隠人雪斎写印印-152_
元のページ ../index.html#176