鹿島美術研究 年報第5号
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せず,交互に描かれていることがわかるからである。これは,雪斎が同時にいくつかの様式に手をのばしていたことを示している。南宗画的要素と北宗画的要素,写生的要素の様式的混交は,雪斎の時代には,めずらしくはない。これは,関東南画の特徴のひとつといわれる。中山高陽は関東南画の成立に大きな役割を果たした画家だが,画論「画詞鶏肋」で高陽は,「大人,至士は一家に拘らず,広く諸名家の長ぜる所を合せ見て集めて,自ら家を成せり。一家のみ守り学びては,縦え其の師の画に似ても皆病なりと云へり」と,諸派兼学をあるべき姿として説いている。雪斎の様式的混交は,こうした関東南画の傾向と極めて近いところにあった。雪斎の江戸詰の家臣で画家の春木南湖は小不朽吟社という漢詩社を通じて渡辺玄対や谷文昆ら江戸で活躍している画家たちと知己であったが,雪斎が南湖を通じて関東南画の傾向を知ることがあったかもしれない。雪斎の遺した作品のジャンルの幅は,視点によっては,関東に興ってきた南画家たちと同じ流れを汲む画家として雪斎を位置づけることを可能にし,画家としての雪斎像にいくらかの転換を迫るものになるかもしれない。雪斎の交遊…木村兼酸堂・春木南湖・十時梅厘・月倦木村兼蔽堂は,雪斎とのあいだにその厚情が伝えられている。兼蔽堂は,元文元年(1736)生まれ,江戸中期の文人,好事家。坪屋吉右衛門と称して酒造業を営んでいた。莫大な富に支えられた自適の生活が書画から博物学に至る多才多芸の趣味生活を可能にしていた。そうした自適の趣味生活は全国の文人墨客たちの垂涎の的になっていた。兼薮堂側からみた雪斎との係わりは「兼薮堂日記」断片的に現れる。雪斎の名前が現れるのは,現在残る「兼薮堂日記」では,天明2年3月27日に雪斎が通りすがりに兼蔑堂を訪ねたという記事が最初であるが,その気安さからみて,それ以前から交流があったと考えるほうが自然であろう。当時,雪斎は大坂城大番頭の任務を得て大坂にいた。天明4年8月,職務を終えて江戸に帰るまで何度か兼蔽堂と会う機会があった。その会見は,「兼叢堂日記」によると,兼簸堂が雪斎のもとに伺候するか,そうでなければ,他の大名邸での集まりで会う,といったかたちであった。行動の自由の利かない大名と自由な町人との限られた交遊のかたちであろう。雪斎と兼蔽堂との関係は,雪斎の大坂城勤番が終わってもなお続く。雪斎の東下に兼蔑堂は同行する。天明7年2月26日から3月24日まで,兼酸堂は伊勢旅行に出,長島の領国-153-

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