26日から3月24日まで,木村薬蔑堂は伊勢旅行に出るが,これを聞きつけたのであろう,20日の「兼蔵堂日記」を見ると,「早朝十時半蔵同伴登城増山河内守席画酒井越前守同にいる雪斎を訪ねている。寛政2年春,蕪蔽堂は支配人過醸の容疑に連なり,町内年寄役召し上げのうえ,謹慎の咎めを受ける身となった。雪斎は,領内川尻村に兼蔑堂を引き取ることにした。同年10月9日から寛政5年2月11日丸2年余りを川尻村で過ごすことになる。享和2年(1802年)韮酸堂は67歳で没して,大坂域南の大応寺に葬られる。雪斎は死を悼む碑文を撰んでいる。雪斎と兼藉堂との間は,このような交情関係だけではなく,書画や博物学の知識の伝授という点でも強い絆があったはずである。雪斎の絵画作品や写生帖の成立には,兼蔵堂の所持する明清画や博物学に対する該博な知識や多くの資料が役立ったに違いないが,これは,兼蔽堂遺品の綿密な調査がなされたとき,解決の糸口を掴むことができよう。「神農図」(三重県継松寺蔵)は調査で得た数少ない人物画のひとつであるが,月倦風の粗荒な筆で描かれたものである。月倦も雪斎と交遊のあったひとりである。天明7年2月伊勢在住の画僧月倦が長島城の雪斎のもとで待ち構えている。十時梅厘は,行動に規制の大きかった雪斎に欠かせない手足のような存在であったともいえる。梅届は大坂の生まれ。儒学を伊藤東所,書を趙陶斎に学んだというが,前半生について詳しいことはわからない。雪斎との出合いの逸話については「雲姻逸話」などに伝えられるが,いずれも講談ネタを越えるものではない。天明4年(1784)2月に雪斎は十時を藩の儒臣として登用,その後,藩校文礼館の学長にすえた。梅産の名は,「兼蔑堂日記」には200回以上も登場する。梅厘の母親,妻の名も登場し,兼酸堂とは家族ぐるみで付き合うごく親しい間柄だったようだ。天明4年(1784年)2月席……」と,兼萌堂は梅厘と連れだって雪斎邸に赴いている。兼蔑堂が雪斎を訪ねるとき,梅厘を同道することはしばしばであった。また,雪斎が薬蔑堂を招くとき,梅厘が使者として赴くことも多い。梅厘は,両者の仲介者,ことによると,兼繭堂を雪斎に紹介したのもほかならぬ梅厘であったかもしれない。天明8年(1788年)には春木南湖を,寛政2年(1790年)には十時梅屋を,雪斎は長崎に遊学させる。長崎で,ともに中国人画家費晴湖と接する機会があったらしい(春木南湖「西遊日簿」・十時梅厘「清夢録」)。費晴湖は,天明8年(1788年)から寛政8年(1796年)まで毎年来航して,日本の画家に大きな影響を与えた。雪斎の「水亭図」(1805年・文化2年三重県個人蔵)には費晴湖風の描写がみられるが,これは,南湖・梅厘の長崎遊学の性-154-
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