鹿島美術研究 年報第5号
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つ。18世紀の後半,新風を模索していた当時の画壇に受け入れられ,たちまちのうちに江戸や明8年のことである。この折衷的な作風が南湖の長崎留学後に一変して南頻風の濃彩の作格が雪斎自身の探究心を満たすという前提をもっていたことを示す証左といえよう。南禎画風の習得……宋紫石からの伝授ところで,雪斎の南頻画の画技の習得経路が問題になるとき,その師として春木南湖の名前があがることが多い。雪斎の場合も大名の子弟の通例に洩れず,家督を相続して国入りを果たすまでの幼少期から青年期にかけては,江戸の藩邸で教育を受けている。おそらくは,その教育の一環として狩野派あたりの画師から基本的な絵画技法の手ほどきは受けていたものと考えて間違いないだろう。しかし,彼が南頻派風の絵に手を染めるようになった切掛けは伝えられていない。南頻派は,中国の画家沈南禎が18世紀のはじめ長崎に渡来し伝えた新しい画風で,上方の市民層のあいだで拡がっていった。雪斎はこのような流行現象を巧みに受けとめたわけである。もちろん,南頻派の作品を見る機会は少なからずあったにちがいない。しかし,大名という身分上の制約からこの流行の画風の制作技法を自由には学べない雪斎に手ほどきをしたのが南湖だという。雪斎の命で長崎に留学し,この南頻派の中心地に滞在し,実際に前述の中国人画家費晴湖などに会ったという経緯がこのような推測を生んだのだろ天明6年作の「花鳥図」(三重県継松寺蔵)は,文人画風の早筆で描かれながらも明らかに南頻派特有のモチーフが認められる折衷的な作風をもつ。南湖が長崎に留学したのは天風に転じたことを証明できれば,南湖からの伝授説も蓋然性はたしかに高くなる。一方,次の資料は,いまひとつの仮説をつくる材料を提供してくれる。(天明甲辰4年)九月十三日増山河内守殿ニテ兼酸堂餞別ノ宴ヲ開ク来会ノ人々稲垣若狭守長門守嫡朽木隠岐守伊予守嫡千葉茂右衛門藤半十郎西條儒官内田叔明渡辺又蔵兄東江波嶺伊藤長秋立川柳川宋紫石渡辺又蔵国山五郎兵衛杵築儒官吉田七五郎-155-

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