ョウ以上の松平斎貴関係肖像を概括すれば,以下の如くである。斎貴は幕末の松江藩主で,学問遊芸に癖のあった人物で,熱中する性格であり,その一端が放鷹に表われ,「新修鷹経」の巻頭の辞により瑶光翁と稲し,鷹場の整備,鷹書の蒐集,新に家紋を,鷹道具の旋子より創作,鷹道具の製作にこり,際限がないようであった。隈の肖像は,将軍家斉愛鷹の“志津”の例(現存せず)があるが,根底に博物画,写実画があって成立したものと考える。1.伝武田信玄画像有名な画像で,側の隼がカットされて用いられることが多い。能登の長谷川等伯画とされているのに,甲斐では地縁的な説明がつかない。横長とはいうものの,上部の賛を切除したと考えた方が良いと思われる。已に沼田頼輔氏は疑念を持たれ,胸の文様を家紋と解され,その解明を説かれているが,論考はなく,現在剥落があって,何の文様か不明である。鈴木敬三氏も別人説で,高野山には別に花菱紋をつけた武将像があった由で,その模写と思われるものが史料編纂所にあり,他に吉良頼康像とされる同一の像があるが,吉良とするには説得性がない。今一つ,持明院に花菱紋の直垂に侍鳥帽子の信玄像があるが,調査に至っていない。成慶院の伝信玄像は,目貫の紋は明白に丸に二引両で,足利一門のものであり,等伯筆説に従えば,その縁より,七尾城主の畠山家の当主とする事に蓋然性が高い。地理的には北陸・近畿圏に限定されよう。仮に畠山氏としても,亡びた家故,史料少なく特定しがたい。一方高野山の山中の多数の塔頭に隆替あり,統廃合が多く,山史に見るべきものなく,目下のところその跡が辿れない。扱又,信玄ブームと信仰その他の理由より,所蔵者に対して決定的な像主の解明がないままの否定の公表にはためらわざるを得ない。従って助成費削減もあり,表だった調査,結論公表の交渉を控えている現状である。結果の当否は別にしても,調査,写真撮影は実施したい。尚,像主に対面する鳥は隼である。何故画としてではなく,画中に生きているのか。何故大鷹でなく隼なのか。上げ隼の愛好者なのか,何故繋がぬか。一種の神鷹か,その理由解明に苦しんでいる。目貫の紋の箇数(太刀3・腰刀2)は等伯の世代の刀装の規準に合致している。像主を特定出来なくても,同学の士の無駄を省くためにも差障りのない発表の場を模索している。1.小田治久像寺伝による故,像主に確実性がない。道家風で異相であり,居えた應は鶴のようであり,論及するには史料が少なすぎる。成慶院蔵法雲寺蔵-159-
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