能にするものであった。平滑で光沢のある印画紙は,優れた階調の変化を生み出し,対象物の忠実な再現をもたらした。写真家の美学的関心は,撮影の瞬間に現像プロセスによって得られる最終的な印画紙を想定(前視覚化)することであり,その視覚は現像焼付けの行程まで持続すべきものであった。これは明らかに撮影対象を主観的に操作することであり,結果としての写真は写真家の意図的な視覚であった。他の視覚芸術メディアから見るとき,写真の技術的,物理的特質の強調は特異なものであったと言わなければならない。近代の写真はカメラの客観的な使用と写真家による対象の意図的な選択と枠取りにより,写真と自然との間には特権的な関係が成立すると張し,写真家の理想において世界は再編成されうるという認識にまで至るのである。しかし写真が近代写真の理想とする特権的な立場で現実に対応するとき,写真家は対象を現実の生活と切り離し,冷静な観察者,解釈者として眺めるだけなのである。こうした写真の歴史にたいして,現代の新しい写真史家や批評家は次第に批評的,政治的な立場を取り始めている。現代の写真家たちはこうした写真の理念に疑問を提出し,あるいはより直接的に近代写真に対する挑戦を開始している。主観的視覚によって客観的であろうとすることの矛盾を攻撃し,写真メディアの純粋性という拘束から解放されることで,写真はようやく他のメディアと同等な表現媒体としての自由を獲得し始めているもと言えるだろう。写真はその始まりから記録メディアとしての役割を要求されてきた。もし写真が,カメラとレンズ,写真科学によってわれわれの環境の時間と空間を反映し,自然との特権的関係を成立させるメディアであるなら,写真は現実世界の歴史性から生まれる世界の動向に対して無関心な立場を取ることは出来ない。このことは写真の保存と関係して重要である。写真の保存の大きな目的は,歴史資料,あるいは社会や自然環境の記録の保存であった。しかし今や新しいテクノロジーによって,写真は記録メディアとしての役割をを終えようとしている。写真が事象の一面の記録であり,写真家の解釈であることが広く了解され,写真にまつわる数々の神話や確信が薄れつつある今,写真の評価には別の新たな可能性が開けつつあるとも言えるであろう。多くの可能性の中で,京都国立近代美術館での写真に対する活動は,美術との関連において,そして美術史と他分野との批評的統合の媒介としての写真研究に向けられるであろう。-167-
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