図像では時代を問わずほぼ一般的であることは,本像と図像とのなんらかの関係が思われて興味深い。これらに対し,条吊の懸け方,腎.腕釧の意匠及び技法,腰布の巻き方などは定朝様作例に準じており,形式面では本像が保守的傾向を基調としていることが示される。この意味で久安4年という造立年代に矛盾はないが,本像の場合,先述した3つの特徴が非同時代的な要素として注目される。現段階では,後代慶派作例に連なる特徴としてそれらを理解したいが,さらに検討が必要であろう。続いて作風をみてみよう。若々しい撥刺とした気分に満ちた像容である。半丈六の大きさに相応しい堂々たる体躯で,すっくと立ち上がる上体とそれをがっちりと支える両脚部が安定感あるプロポーションを作っている。穏和な定朝様作例の多い12世紀前半期にあっては珍しい,力強さを感じさせる像容である。しかし,その肉取りは,基本的に西大寺四王堂像のような定朝様表現のそれによっており,面部や胸腹部はゆるやかな曲面曲線が支配的である。衣文表現も彫りが浅く柔らかなもので,またその側面観も定朝様の姿勢に従っている。定朝様が本像の基本にあることは疑いなく,久安4年造立と推定に不都合はないものと言えよう。しかしながら本像は,この期の定朝様作例とは異なる堂々たる体躯と撥刺とした気分を持っており,この本像独自の特徴の具体的な分析とその12世紀の様式展開に於ける位置付けが問題となる。今まだこの点について明確な解答を得ていないが,その肉取りはよりめりはりの効いたものとなり,特異な衣文形式の両脚部には写実的な気分が感じられるなど,12世紀後半期への新たな展開を示しているように思われる。また本像は,天冠台や毛筋の彫りも入念で,造形の乱れは寸分もなく,作者の高い技量を感じさせる優品である。藤原忠実発願の本格造像とするに相応しく,中央正系仏師の手になるものとみて大過ない。以上の検討をまとめると,本像は,定朝様を造形と基本としながらも,単なるその踏襲に終ることなく,形式・作風両面に新たな工夫を凝らした優品と言うことができ,その優れた作域から中央正系仏師の手になるものと推定される。以上の文献検討や様式分析を踏まえて本像の造立仏師を推定してみよう。願主藤原忠実周辺の正系仏師というのが第一条件となる。岡氏の推定通りここで康助の名が出てくるが,同様に注目しなければならないのが院派の存在である。特に,久安5年(1149)の忠実発願宇治成楽院西御堂造仏を史料上の初見とする院尊が注意される。しかし,法金剛院像に12世紀前半期院派の作風がうかがえるとすれば,本像との作風の相違は明らかで,事績の検討とも併せて,院尊との推定には否定的にならざるを得ない。本-185-
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